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Takagi Family Documents Digital Library

This is a collection of documents formerly owned by the Hatamoto Takagi family, who were responsible for flood control in The Kiso Three Rivers basin during the Edo period.(Partially Important Cultural Properties.)

Annotation of the "Takagi Family Documents Catalog" (JP)

巻一 巻二 巻三 巻四 巻五

『高木家文書目録』巻一



高木家文書は、徳川政権下において、岐阜県養老郡上石津町(滋賀・三重両県に接する岐阜県南西部に位置する)を領知していた旗本、高木家西家に旧蔵されていた文書記録類より成る。           
 高木家は。もと美濃の駒野・今尾地方の豪族であり、斎藤道三や織田信長に仕えたのち、徳川家康の幕下として、慶長六年(一六〇一年)牧田川上流の石津郡内の時・多良郷に四千三百石を与えられた。当時の旗本の大半が江戸に在住し、知行地には陣屋をおき、代官や用人に支配を委せていたのにたいして、高木家は常時知行地に居住していた。それは、この土地が関ヶ原から伊勢路に通ずる山間要害に位置するとともに、木曾・長良・揖斐三川の治水の遂行を必要としたためであろう。高木家には、東(一千石)、西(二千三百石)、北(一千石)の三家があり、一名美濃衆とも呼ばれ、交代寄合の格式をもつ家柄であった。           
 徳川政権の崩壊後、明治初年には、これら三家のうち東・北両家は没落し、本家である西家のみが存続して現在にいたっている。ところが、第二次世界大戦後の激しい社会的・経済的変動のなかで、その所属する文書記録が散逸する危険にさらされることとなった。本学は、散逸防止のために、昭和二十四年と三十年の二回にわたって一括購入していった。三高木家の文書は現在分散保管されているが、西家分の大部分は、このようにして本学に所蔵されており、それは質・量とともに他の者ものに比して一段とすぐれている、といえよう。           
 本学所蔵のものは、その数約七万七千点にのぼり、高木家が三川の普請奉行ないし水行奉行を職掌としていたところから、その文書はふるくから濃尾治水史料の宝庫として知られていた。治水工事のうちとくに著名なのは薩摩藩が幕命により、多数の犠牲者をだしながら遂行した宝暦治水工事(一七五三-五五年)である。高木家文書には、このような治水関係史料だけでなく、近世を通じて移封されることなく、知行地に在住していた関係で、検地帳、名寄帳、宗門改帳、五人組帳、郷村高帳、諸種の日記など、きわめて多種多様な書類がふくまれており、旗本領主制を知るために不可欠の貴重な史料群を構成している。           
 この種の史料は、単に図書館に一括所蔵されているだけでなく、よく分類・整理され、目録が刊行され、ひろく関係研究者に公開されなければならない。この文書の購入依頼、個々の研究者による部分的な整理と利用があったけれども、本学としては以上の観点にたって、昭和四十六年に附属図書館に高木家文書調査室を設置し、大学の共通経費からの支出によって、分類・整理することとなった。しかし、この作業自体はきわめて大きな労苦を必要とするものであった。整理のすすむにつれて、一枚物など、補修を必要とするだけでなく、その史料的性格の判断に時間と専門的能力を要するものがしだいに増加してきたからである。調査室は、当初五年間のよていで出発したが、さらに昭和五十四年まで三年間延長することとなった。この間における調査室運営委員会の委員はもとより、とくに直接作業を担当してきた室員西田真樹助手および補助員の方々の労苦に深甚の謝意を表しておきたい。また本書の解題ももっぱら西田室員の執筆に成るものである。           
 高木家文書の分類・整理は、昭和五十四年までに、分類項目からいえば、治水、土地、支配、家臣、勤役、家政、財政、明治までが完了し、それらは五十五年までに五巻本として刊行される予定である。高木家文書としては、なお書状(推定二〇、三〇〇点)、日置江村(推定二、一〇〇点)、その他(絵画習作、雑物)が残ることとなる。このことは、残された文書の史料価値が低いことを意味するものでなく、この作業が大学の共通経費に依存しながら、担当長期にわたったため、史料の性質の異なるところで、一応の区切りをつけたにすぎない。私たちとしては、この残された文書についても、近い将来において、なんらかの方法で分類・整理がすすめられることを期待しておきたい。           
 高木家文書調査室は、作業の進捗するなかで、毎年報告書を作成するとともに、一部史料の展示会を開催し、多大の関心を集めてきた。しかし、その利用者は現在までのところ比較的限られており、私たちとして目録の刊行を心から期待してきた。今回幸いにして文部省学術国際局情報図書館課の御好意によって、刊行費が与えられることとなった。なおこの目録の件名には、利用者の便宜のために、簡単に内容を註記することが試みられている。           
 この刊行の機会に、これに関係してきた多くの人びとに感謝の念を捧げるとともに、それに報いるためにもひろく研究者の利用に供されることを心から希望しておきたい。           
 昭和五十三年三月           
  名古屋大学附属図書館長           
        横越 英一

 

解題           
一、高木家文書           
1、高木家の歴史


 高木家は、もと美濃国駒野・今尾地方の豪族で、のち徳川家康の麾下となり、慶長六(一六〇一)年に、牧田川の上流、鈴鹿、養老の両山脈のあいだに位置する石津郡時・多良(現養老郡上石津町)に、西高木家二千三百石、東高木家千石、北高木家千石を与えられ、交代寄合美濃衆と呼ばれる旗本であった。           
 その先祖は大和に出て、伊勢から美濃に移動してきたと伝えられるが、戦国期にあっては、はじめ斎藤道三に属し、その滅亡後は織田信長に従った。永禄十(一五六七)年に信長に本領安堵され、駒野・今尾地方を根拠としていた。天正十八(一五九〇)年、織田信雄が豊臣秀吉により秋田に配流されると、高木一族は甲斐に赴き、加藤光泰のもとに身を寄せた。その後、徳川家康に召され、関東に知行地を与えられた。関ヶ原の戦いでは「案内者」となり、その軍功により、加増のうえ時・多良の地に知行替えとなった。           
 時と多良はともに牧田川沿いの谷ではあるが、現在でも隧道を境としており、それぞれ独立した地形をなしている。中世にあっては、別個の惣村を結成していたものと思われる。           
 高木家が入部する以前の時と多良の歴史は、高木家によって旧記類が没収され焼かれてしまったという伝承を裏づけるかのように史料に乏しく、十分にはわからない。それでも、多良については、『多良物語』によれば、遅くとも十六世紀には三輪三人衆と呼ばれる地侍を中心に惣村を結成し、百姓たちによる自治が長島一揆に加勢したということで信長に攻め滅ぼされ、多良は織田家、ついで豊臣家の支配するところとなった。           
 時についても、明和四(一七六七)年という近世も中期の時点で、ある百姓が高木家にたいして、「往時、私方より時を治め候時節は、法螺をもって榧の木に上り、吹き、諸人を集め申し候」と言っているように、のちの高木家の治政下に百姓身分に押しこめられていく土豪層による在地支配があったことを窺わせる。           
 高木家が入部してのちも、当初は時村、多良村として把握されていた。すなわち、慶長十四(一六〇九)年の幕府による美濃国一斉検地により、『濃州石津郡時村御縄内打水帳』(全二十三冊)、『濃州石津郡内多良村御縄打水帳』(全六冊 ほかに翌年付『石津郡多良村之内奉公人衆水帳』一冊)が作成されている。           
 行政単位としてだけでなく、農民の側からいっても、まだこの時期は村としての機能を存続させていたものと思われる。それは、元和九(一六二三)年、多良村が高木家の不正を美濃国奉行岡田将監に訴え出た事件に現われているし、同年、時村においては「山あがり」という集団的逃散があったことに示されている。           
 その後、時村が八ヵ村に、多良村が高木家の所領がある村だけで十六ヵ村に分けられるのであるが、この時期はにわかに断定しがたい。ともあれ、それぞれは時郷、多良郷としてその名をとどめていくのである。時郷は高木三家の相給で、多良郷は高木家のほかに、旗本別所家、同青木家、尾張藩などとの相給である。高木三家はそれぞれに両郷に代官を置き、村方の支配をした。           
「高木三家の館は袮宜村と宮村の間にあり、館を山の峰に溝へ下よりみあげ殆んど城郭に彷徨たり」           
 これは尾張藩の役人樋口好古が著した『濃州徇行記』の一節である。この本は寛政年間(十八世紀末)にできたものといわれているので、本巻口絵にみられる館について述べたものではない。高木家の官は天保三(一八三二)年に焼失しており、現存している遺構はそれ以降の再建になるものである。しかし、この写真にも樋口の記述はあてはまり、往時が偲ばれるというものである。眼下に牧田川とそれに沿う伊勢街道を見降ろし、館の隣には式内社大神神社の社を控えていた。           
 このような高木家の館の威風は、同家が交代寄合であることと無関係ではあるまい。           
 高木家は三家の知行高を合わせても四千三百石で、いわば普通の規模の旗本である。しかし、交代寄合ということで、知行高一万石以上の大名の格式を許されていた。すなわち、自らの所領を「領分」と呼ぶことがあり(旗本のばあいは「知行所」と公称した)、そこには陣屋を構えて在地し、参勤交代が義務づけられていた。大部分の旗本が所領には代官を置いて支配を任せ、自分は将軍家の膝元近くに屋敷を拝領し、都市生活者として日を送ったのとは大いに異なる。           
 交代寄合には二種類があった。それは参府したときに江戸城中に詰める場所で区別されていたのであるが、帝鑑の間に詰める十九家―このなかには智将といわれた竹中半兵衛の遺跡を継ぎ、濃州垂井に所領を有した竹中家が含まれる―と、柳の間に詰める十二家とがあった。後者は那須衆、信濃衆、三河衆、そして高木三家の美濃衆に分けられていた。           
 この家格の歴史的意義については十分明らかになってはいない。高木家自身はつぎのように述べていた。東高木家は『寛政重修諸家譜』に「この地嶮山多く、山賊及び耶鮮の徒の患いあるにより、貞友が一族代々多良郷に住むべき旨仰を蒙る」と載せている。ここにいう「耶鮮」は必ずしもキリシタンを指すのではなく、さきに述べたような中世以来の伝統を持つ百姓と考えてよいであろう。また、慶応三(一八六七)年、美濃郡代より、国中取締りのため幕領、私領、寺社領の別なく手付、手代を派遣して見廻らせる旨通知してきた際、西高木家では、「私ども在所の儀はかねて上方間道の儀につき、関ヶ原御利運巳後、非常のため差置かせられ候旨、東照権現様より台命を蒙り奉り居り候儀につき、常々その心得にて罷り在り候」と述べ、自領内の間道取締りは従来通り自分支配にすべきことを幕府に伺い出た。つまりこの二事例は、自分たちの所領の歴史的地理的特殊性とそこを支配してきた正統性とを主張し、自らの由緒ある存在を誇示している。           
 しかし、これらはまったく根拠のないことではない。豊臣方との領主間矛盾を内包する情勢にあって、この地域が軍事的に重要であったことは十分に首肯できることであるし、同時に、その拠点を維持するということは、中世以来の百姓の伝統を否定し、ここに幕藩的な支配を確立するということでもあるからである。           
 交代寄合であることは、幕府に対する軍役負担を示す史料がある。これには、騎馬二、旗一、鈴五、弓二、鉄炮三を書きあげ、最後に「註書」として、「旗は高五千石以上の事たりといえども、交代寄合は万石以上に准じ候事に候えば構いこれなき由。然れども五千石旗二本ゆえ、暫く略して一本となす。高千石といえども交代寄合は格別なり。これにより二千三百石にて人数凡七十人、三千石以上の心得たるべき事」とある。           
 高木家の歴史にとって、いま一つの重要な点は。木曽三川流域との関係である。具体的には、水争いや境争論に際しての論所見分の任務と治水の任務である。この任務は高木家が交代寄合の格式にもとづいて在地していたことと関係があろう。           
 高木家の『御用勤書』によれば、十七世紀後半、十件の争論の論所見分をしていることがわかる。高木家は幕府評定所の指示により論所を見分し、意見書を提出した。裁許が出たばあいは、裁許どおりに争論が収拾されたかどうか、たとえば水争いならば裁許どおりの比率で分水工事がなされたかどうかも見分した。           
 一方、木曽三川の治水には、高木家は近世全期間を通じて関与した。正確には、寛永年中(一六二〇年代以降)から幕末までである。この地域は輪中地帯として知られているように、三大河川を中心に大小の河川が網の目のようになっていた。したがって、この水との戦いは流域住民にとって死活の問題でもあったし、領主藩も無関心ではいられなかった。幕府はたびたび国役普請や諸大名による御手伝普請(なかでも大普請は薩摩藩による宝暦治水であった)をおこない、高木家はその普請奉行として重要な任務を果たした。特に、宝永二(一七〇五)年以降は、高木家は水行奉行の任に就き、三家で年番制をしき、毎年家臣を巡見させ、河道維持に努めた。したがって、高木家にこの地域の住民にとって一つの公の機関としての意味をもっていた。ある輪中が普請を願い出ると、現地を視察し、その普請がもたらす水流の変化で障りが生じないかどうか周辺の輪中に問いつつ、許可するか否かの判断を下す。普請の方針がたてば故障を申し立てる輪中の説得もする。竣功時には計画どおりにできあがったかどうかを見分し、過不足があれば修正させた。河川につきものの上流と下流の対立、右岸と左岸の対立の調停にもあたった。           
 以上のように、近世における高木家は、交代寄合として所領を支配すると同時に、所領とは隔絶した木曽三川流域輪中地帯にも深い係わりをもっていた。           
 高木家は維新政府ができると即座に京都に出て、旧領地を継続して支配する権利、すなわち本領安堵の沙汰を得るための運動を展開した。その結果、明治元(一八六八)年十一月に安堵状が与えられ、あわせて中大夫席を仰せ付けられた。この前後、高木家は前代に続く治水関係の職務をはじめ、いくつかの役職を希望するが容れられず、何回か軍資金を上納するにとどまった。中大夫には東京に定住する義務があったが、高木家は特に許され、明治三(一八七〇)年後半以降、在所に引き籠もった。           
 西高木家の貞正は明治九(一八七六)年から同十二(一八七九)年までこの地方の学区取締役を勤めた。学区取締は学校経営を主要な任務として、視学官もかね、地方の名望家、資産家が任ぜられたものである。ついで明治二十六(一八九三)年まで多芸上石津郡長を勤めた。

 

2、高木家文書の伝来と特徴


 すでに述べたように、旗本は原則として江戸に常駐する義務があり、知行地は代官や用人らに支配を任せるほかなかったため、所領とは無関係にその記録文書類が襲蔵されることが多かったが、維新期以降の旗本家の没落にともない、このような史料の多くは早く散逸して、その残存度はきわめて少ない。さいわい高木家のばあいは知行地であるこの地に終始在地し、ことに西高木家は明治期に入っても公職を勤め、家が存続したため、文書はよく保存されていた。           
 戦前においては、特に木曽三川治水史料の宝庫であるという点に高木家文書は注目されていた。昭和七(一九三二)とし、それまで大垣市中島俊司氏によって整理されていたところへ、黒板勝美東大教授の協力があり、とりわけ昭和十年度と十一年度には黒板氏が所長を勤める日本古文化研究所の事業の一つとされ、結局、五年間に治水関係文書一万九百六十二点の目録採録がおこなわれた。こうして高木家文書の学術的価値はいよいよ明確にされた。           
 しかし、西高木家文書は戦後になってから、その一部が市場に流出しはじめた。さいわい昭和二十四(一九四九)年度には当時の本学文学部中村栄孝教授のはからいで、市場に出廻っていた儀礼文書や領内村方支配文書を購入し、あわせて大垣市中島俊司氏保管のもとにあった治水関係文書を購入し、本学附属図書館に収蔵することができた。その後同家のその他の多数の文書が未整理のまま市場に出廻っていることが明らかになるにおよんで、昭和三十(一九五五)年度ふたたびこれらの貴重な史料を購入し、本学にあわせ収めることができた。           
 本学に収められた高木家文書は総点数七万七千点余と見積られている。その特徴として指摘できる第一の点は、治水関係の文書が豊富にあるということである。川の定期的巡見に関する文書、流域の輪中あるいは村々からの願書、国役普請や御手伝普請の仕様書や出来形帳など、一万数千点が伝えられている。これらの文書をとおして木曽三川流域農民の二百有余年にわたる水との闘いが具さに理解できるはずである。           
 第二点は支配関係文書が豊富だということである。大量に保存されているというだけでなく、高木家が知行地に常駐したということによって特徴づけられている。すなわち、高木家でも代官を置いたが、その多くは庄屋あがりであり独立した機能をもつというほどのものではない。むしろ領主機構の総体が直接村方を掌握していた。そのためにさまざまな問題に関する支配の実態が、領主側の動きを含めてかなり具体的に文書や記録として残されている。           
 第三点は家政問題文書が二万点ちかくあり、高木家の治水、支配との係わりの問題を深めるのにも好都合である。財政関係文書約九千点は十八世紀中葉以降が中心的に残っている。財政以外の家政関係文書一万点は、系譜、家督、日記、書状、交際、規式、家作、書籍、学芸、吉事、仏事などに関する文書である。           
 第四点は維新以降の文書が約四千点あることである。これにより高木家という一交代寄合が維新変革のなかでどのような動きを示し、転身を遂げていったかが理解できる。           
 このほかに知行地関係、戸口関係、家臣関係、治水以外の勤役関係など八千五百点の文書と二万点余の書状類がある。           
 以上のように、本文書は高木家の歩みとともに集積されてきた文書群の原型をほぼそのまま伝えており、史料的価値は高い。           
 本学では昭和三十七年度および三十八年度の両年度にわたって、文学部中村栄孝教授のもとで、治水関係文書約二千点の整理をしたが、ほかの大部分は遺憾ながら未整理のまま放置の状態に置かれてきた。           
 その後、昭和四十三年にいたって、本学教養部伊藤忠士助教授が、学生を指導しながら、治水関係文書以外のものの分類整理をおこなった。これにより高木家文書の質的、量的概要をつかむことが可能となった。しかし、一点整理にまで手が廻らず、依然として公開するまでには程遠い状態であった。           
 昭和四十五年六月二十六日、従来果たされなかった高木家文書の体系的整理を実現すべく、文、法、経、工の各学部および教養部(最終的には全学部)から各一名の共感と図書館側からの館長、部長、整理課長が参集し、第一回の打合わせがもたれ、翌年二月まで二都合七回の打合わせが開かれた。当初、その整理は全学施設としての古文書センターの業務として位置づけられ、将来は名大資料センターを設置する構想がたてられた。しかし検討の過程で、本文書の学問上の重要さから各方面の期待も大きいだけに、一日もはやく整理し公開することが急務とされ、当面、高木家の調査、整理に絞って計画実現を急ぐこととした。           
 そして昭和四十六年三月二十五日、大学の事業として名大附属図書館高木家文書調査室を設置し、予算の裏付けと定員は配置を実現し、運営委員会のもと、五ヵ年計画で高木家文書の調査、整理が開始されたのである。

 

二、高木家文書調査室           
1、機構と経過


 高木家文書調査室は、高木家文書を五ヵ年間で調査、整理し、閲覧に供するための業務をおこなう目的として、本学附属図書館に設置された。調査室の運営に関する重要事項の審議は、各学部および教養部の教官各一名(文学部は二名)をもって組織する運営委員会があたった。また、運営委員会のもとに文、法、工の各学部および教養部の委員からなる小委員会を置き、運営細目の審議にあたった。調査室は、運営委員会委員長を室長とし、文学部助手一名を専任の室員とし、若干名の補助員と、昭和五十二年十一月からは目録刊行要員として文学部助手一名を加えて構成されている。           
 当初、高木家文書の総点数を五万点と推計し、年間一万点ずつの整理で、五ヵ年間で完了する予定であった。しかし、昭和五十年、最終年度に入って三万数千点の整理が完了したにすぎず、また総点数も見直しの結果的七万七千点にのぼると予想されたので、書状その他の文書二万数千点の整理は別途考えることで当面の整理対象からは除外して、残りの二万数千点を三年間延長して整理をすませ、この事業に一応の締めくくりをつけることとなった。これにより高木家文書の整理事業は都合八ヵ年計画となり、現在第七年度を終えようとしている。           
 この七年間の運営委員および調査室のスタッフの名簿をつぎに掲げる。

高木家文書調査室運営委員 (昭和四十六年三月~同五十三年三月)           
 文学部助教授 網野 善彦(昭和五十一年三月まで)           
 同  助教授 三鬼清一郎(昭和四十七年三月まで、同五十一年三月より 小委員会委員)           
 同  教授  佐藤 進一(昭和四十七年三月より同五十一年三月まで 小委員会委員)           
 同  助教授 石原 潤 (昭和五十一年三月より)           
 教育学部教授 結城 陸郎(昭和五十年三月まで)           
 同  教授  江藤 恭二(昭和五十年三月より同五十一年三月まで)           
 同  助教授 篠田 弘 (昭和五十一年三月より)           
 法学部教授  平松 義郎(小委員会委員長)           
 経済学部教授 塩沢 君夫(委員長)           
 理学部教授  樋口 敬二(昭和四十八年九月まで)           
 同 教授   島津 安雄(昭和四十八年十一月より同五十年三月まで)           
 同 教授   大西 英爾(昭和五十三年三月より)           
 医学部教授  杉山 鉦一(昭和四十七年三月まで)           
 同 教授   岡田 博 (昭和四十七年三月より同五十一年三月まで)           
 同 教授   祖父江逸郎(昭和五十年三月より同五十一年三月まで)           
 同 教授   坂本 信夫(昭和五十一年三月より)           
 工学部教授  島田 静雄(小委員会委員)            
 農学部教授  片岡 順 (昭和五十一年三月まで)           
 同 教授   松尾 幹之(昭和五十一年三月より)           
 教養学部助教 伊藤 忠士(小委員会委員)

高木家文書調査室           
  室長  塩沢 君夫           
  室員  西田 真樹(昭和四十六年五月より)           
      笹本 正治(昭和五十二年十一月より)           
  補助員 戸部 裕子(昭和四十六年六月より同年七月まで)           
  同   岸本 知子(昭和四十六年六月より同四十八年四月まで)           
  同   神谷 友子(昭和四十六年六月より同四十七年三月まで)           
  同   羽鳥百合子(昭和四十六年九月より同四十七年七月まで)           
  同   匂坂 和子(昭和四十七年四月より同四十八年三月まで)           
  同   山下美智子(昭和四十七年八月より)           
  同   牧  敬子(昭和四十八年二月より同四十九年十二月まで)           
  同   旭  澄江(昭和四十八年五月より同四十九年三月まで)           
  同   村瀬 雅子(昭和四十八年五月より同五十年三月まで)           
  同   高木健太郎(昭和四十九年五月より同五十年三月まで)           
  同   酒井 雅子(昭和四十九年六月より同年八月まで)           
  同   中島 俶子(昭和五十年二月より)           
  同   山森 寿子(昭和五十年四月より)           
  同   笹本 正治(昭和五十年四月より同五十一年三月まで)           
  同   下村 信博(昭和五十一年四月より)           
  同   戒能 民江(昭和五十一年七月より)

 

2、事業


 調査室の中心事業の一つはいうまでもなく文書の調査と整理である。整理は一点整理を貫いた。文書は内容によって分類し、一点につき一枚のカードを作成する。カードの記載事項は、分類記号と整理番号、標題、摘要、成立年月日、作成者、宛名、原写刊などの別、形態、点数である。文書には分類記号と整理番号を記したラベルを貼付してある。さらに、カードとおなじ内容を記した整理用封筒に納められている。一括されている複数のその原型を保存するとともに、一点ずつカードをとり、ラベルを貼付した。こうして昭和五十三年三月十一日現在、四万九千二十八点の整理を完了した。同時に、調査室では、一点整理の成果にもとづき、整理済み文書の解題を中心とした『高木家文書調査報告』を第一集から第六集まで発行し、関係各方面に送付した。           
 高木家文書の普及に関しては、これまでに六回の展示会を催してきた。以下に、展示テーマ、出陳点数、参観者数を掲げる。           
 昭和四十六年十月 「高木家文書の概要」 二十一種四十五点  五十名           
 昭和四十七年十一月「旗本の領地支配―主として年貢収取―」 二十五種九十二点 二百三十名           
 昭和四十八年十二月「高木家の家臣団」 四十種四十七点 百六名           
 昭和五十年二月  「高木家と木曽三川治水」 四十七種五十三点 百十八名           
 昭和五十年十二月 「弘化二年高木家領多良九ヵ村一揆」 四十一種五十三点 二百五名           
 昭和五十一年十二月「輪中」 三十六種三十七点 三百八十五名           
 つぎに、調査室では本学所蔵以外の高木家文書および関連文書調査にも努めてきた。その結果、三重県桑名郡多度町の伊東春夫氏方に西高木家の治水関係文書三点、東高木家文書は、名古屋市蓬左文庫の二百六十五点、徳川林政研究所に百六十四点と未調査の書状類多数、上石津町時山広栄寺に十六点、北高木家の家臣を勤めた上石津町宮鈴木家の所蔵文書一点の調査をすることができた。このほかにも未調査ではあるが、所在の判明したものが数件ある。関連文書では、高木家建立になる正林寺文書、時郷の郷目村三輪家文書などを調査した。より詳しい調査報告は『高木家文書調査報告』を参照されたい。なお、蓬左文庫所蔵の東高木家文書の目録は、本調査室も協力して完成した『名古屋市蓬左文庫古文書古絵図目録』に収蔵されている。           
 文書調査以外に、運営委員会は現地調査を三回おこなった。第一回(昭和四十七年十月四日)は上石津町、第二回(昭和四十八年十一月九日)は輪中地帯、第三回(昭和五十年十一月十二日)は交代寄合三河衆松平左衛門家故智を中心として豊田城を調査した。           
 このほかに、昭和四十九年二月、図書館関係者をはじめ大学内外の強い要請により、東海地区大学図書館協議会の協力を得て、古文書講習会を実施した。講師と講義題目は、佐藤進一委員「古文書一般」、平松義郎委員「近世文書(家臣)」、伊藤忠士「近世文書(村方)」、西田真樹室員「高木家文書」で、受講者数は六十三名であった。           
 昭和五十一年十月四日、ケンブリッジ大学教授S・F・C・ミルソン氏の本学表敬訪問に際して、調査室では二十二点の史料を展示し、同教授の参観を得た。           
 最後に、本事業の総まとめとして、ここに『高木家文書目録』巻一を発刊し、来年度以降、巻五まで続巻準備中であることを付記しておく。

 

三、項目説明


 本巻に収めた史料は総点数九千五百三十九点である。その内訳は、大項目「領地」三千百九十四点、大項目「支配」の一部六千三百四十五点である。           
 「領地」には支配の対象となるもの、すなわち土地と人民に関する史料を分類した。分類項目名では「知行地」(千三百七十点)「戸口」(千八百二十四点)がそれぞれに対応し、これを中項目とした。           
 「支配」には支配の態様を示す史料を分類した。この項目の中項目で、本巻に収められたものはつぎのとおりである。「年貢」(二千二百三十一点)には領主と農民の基本的関係を示す年貢収取に関する史料を分類した。「諸役」(八百十二点)には年貢以外に農民が負担すべき諸税に関する史料を分類した。「村政」(六百九十四点)には支配の末端機構としての村に関する史料を分類した。近世の村には自律的な共同体としての側面が別にあるわけであるが、それが高木家文書としての集積されたこと自体が示すように、支配と無関係ではありえない。「法令」(五百七十七点)は説明するまでもない。「願書」(千三百五十三点)には農民のあれこれの要求を実現すべく領主に提出された文書を分類した、逆に、それらにたいする領主側の対応を請けて農民が領主に提出した文書である請書をもここに分類した。本来はそれぞれの要求によって分類すべきであるが、「諸願書」として一括して残されていることから、その原型を保存するためにこの項を設けた。繁雑となることを避けるために、この項にかぎって凡例に示すような重複収蔵をしてないので、注意を要する。「出入・吟味」(六百七十八点)には個人間の争論とそれへの領主の介入の結果としての吟味に関する文書を分類した。吟味はまた争論を起点としないで、領主の側からの一方的なばあいもありうる。           
 以上が本巻に該当する中項目の内容規定である。以下、小項目ごとにその内容規定とそこに分類した文書の概略を述べていく。なお、文書名の下の括弧内数字はその文書の整理番号である。           
 土地台帳 この項目には、検地帳・地改帳類、名寄帳、そのほか開発や災害などによってあらたに土地を丈量し確認がなされた際の基本台帳を分類した。総点数五百十一点である。           
 『濃州石津郡時村御縄打水帳』および『濃州石津郡内多良村御縄打水帳』は大久保石見守長安による美濃国一斉検地の際のものである。時村の検地は、風祭太郎右衛門、小沢三五郎、田中惣右衛門により、九月一日より二十七日までにおこなわれている。高木三家の知行地の区別なく検地しているのが特徴である。多良村の検地は村上孫左衛門によって九月二十一日から二十三日までにおこなわれている。多良村も相給であるが、こちらは西高木家の知行地の分のみである。これらの検地帳には「永川流戌年改 石原清左衛門」という書き込みがある。石原清左衛門には幕府の代官である。この代官により戌年に「永川流」すなわち田畑の流失の見分がされたことがわかる。これに関することは元和九(一六二三年)に高木三家から美濃国奉行岡田将監に提出した『時村多良村御検地帳面覚』(四三)にすでに記されているので、戌年は慶長十五(一六一〇)が元和八(一六二二)年のどちらかである。           
 幕末には田畑の見分が盛んにおこなわれている。その際の案内帳、野帳、本帳が目録にみるごとく揃っている。           
 元和三(一六一七)年の『時村川成改帳』(二〇四)は被災の田畑を一枚ずつ点検し、植付のできる面積を差引いて純粋の川成を把握している。それによると知行地の八・六パーセントが川成とされている。この年、東高木家でもおなじように川成改めを実施しており、蓬左文庫に『川成内見帳』、徳川林政史研究所に『時多良川成内検目録』がある。時・多良は谷間の地であり、洪水や山崩れによる田畑の被害は歴史的に少なからぬものがあった。そのような事情を反映して、荒地見分関係の史料が多くなっている。同時に、復旧工事=「起返し」の史料も多いわけである。           
 高帳 この項目には、主として知行高に関する文書を分類した。総点数百三十三点である。           
 第一のグループは知行高目録に類するものである。高木家が領主として存在しうる最大の根拠である将軍家光の朱印状写(五四)をはじめ、国絵図作成やその他の資料として幕府に提出された郷村高帳、維新政府に提出された高帳、年貢賦課対象地の石高の書出しである毛付高帳などである。このほかに村高を書きあげたもの、石盛の上中下別に村高を集計したもの、さらに、村借りの形式をとった領主の借金に際して金主に提出した村高帳などもここに分類した。           
 第二のグループは所領の村名だけを書きあげたものであるが知行高目録に準ずるものとして、この項目に分類した。           
 第三グループは没落農民の石高調査と高木家に直接関係のない地域の石高に関する史料である。           
 知行地その他 知行地に関する文書で、前二項目に分類されたもの以外の文書をこの項目に分類した。総点数は七百二十六点である。高木家による土地に関する支配の具体相をこの項目の資料で窺うことができる。たとえば、「上り地」「揚地」などはその一例である。これは主として年貢末進を理由に高木家に引きあげられた土地を指している。『細野村揚地田畑改覚帳』(四)によれば、村高の十パーセント強が「揚地」とされ、検地により四十一パーセント縮みの石高を打出し、五人の者へ「作廻」を命じたことがわかる。           
 新田開発に関する一連の文書もここに分類されている。未墾地の開発願いが農民から出されると、この地を「願地」と呼び、鍬下年期を与えて開発させ、年期明けに検地をした。こうしてできた新田を、高木三家で知行高に応じ、二対一対一に分割して領有した。開発の手間や鍬下年期の延長などに関する農民からの願書、領有の割合をめぐっての高木三家の懸合書状などが多くある。           
 高木家相互の土地賃借や譲渡に関する文書もここに分類した。           
 人別改 この項目は、領民が文字どおり人別に書きあげてある文書と、合計のみを記した文書との二種類を分類した。総点数八十四点である。前者に該当するものとして宗門改帳があるがこれは別項とした。           
 元和九(一六二三)年の『時多良家付覚』(一)はこの項目のなかでもっとも年代の古いものである。これは領内の農民のうち屋敷所持者を調査したものである。役人、牛馬の有無、身分、職業、疫病者、宗教関係などの註記がある。           
 午年と子年に幕府勘定所へ提出した「美濃国石津郡之内人数帳」という同一標題の史料は、その控えが享保十七(一七三二)年度を最初として十九冊ある。特に寛政十(一七九八)年度から元治元(一八六四)年度まではすべて残っている。  特殊なものは万延元(一八六〇)年の『墨色調帳』(『黒色調帳』『黒色改帳』)十冊(三八~四七)がある。この前後、数回の張訴がおこなわれるという不穏な情勢のなかで実施されたものである。『御用日記』の記述によれば、このような情勢を鎮めることを領主側は期待したようである。内容は時郷の七十~八十パーセントの戸主とその十六才以上の弟や息子がめいめい一を書き、その下に署名したものである。           
 宗門改帳 この項目名は「宗門改帳」としたが、大部分は、標題にも示されるように、五人組帳をも含んでいる。総数二百十八点である。時郷のうち、上村、堂上村、細野村、時山村の四ヵ村分は一帳とされており、宝暦十(一七六〇)年のものを最初にして三十二冊ある。このうち宝暦十年と同十二(一七六二)年の二冊は戸主のみの記載であり、弘化三(一八四六)年は同一のものが二冊あり、最後の安政七(一八六〇)年のものは落丁があり不完全である。このほか宝暦六(一七五六)年二月付の時山村分のみのものが一冊ある。           
 時郷のうち、下村、山上村、打上村の三ヵ村分は一帳とされており、宝暦二(一七五二)年のものを最初にし、安政七(一八六〇)年のものまで三十七冊ある。このうち最初の帳面は家族構成は知れるが戸主以外の名前は記してなく、宝暦十二(一七六二)年のものは戸主のみの記載である。このほか寛延四(一七五一)年三月付の打上村分のみのものが一冊ある。           
 多良郷は一帳に仕立てられている。宝暦二(一七五二)年のものを最初に、安政七(一八六〇)年のものまで三十八冊ある。このうち最初の帳面は家族構成は知れるが戸主以外の名前は記してなく、宝暦十(一七六〇)年と同十二(一七六二)年のものは戸主のみの記載である。           
 以上は浄土真宗門徒の宗門改帳であるが、真言宗の百姓が数家族あり、この分が一帳として、安永九(一七八〇)年から慶応三(一八六七)年のものまで六十三冊ある。また、浄土宗が一名おり、この分の宗門改帳が安永六(一七七七)年から寛政七(一七九五)年まで十七冊残っている。さらに、正林寺百姓(一家族)の宗門改帳が弘化三(一八四六)年から文久元(一八六一)年まで十三冊ある。           
 宗門一札 この項目に分類した文書は、前項目の宗門改帳=「惣帳」(記載される一軒一軒は「平家」と呼ばれる)にたいして「一本紙」と呼ばれるものである。これには二種類ある。一つは宗門改帳の記載形式とまったくおなじで、単に家一軒分が一文書になっている点が異なるのみである。もう一つは寺院が自らの寺内の者がキリシタンでないことを証明したものである。特に前者についてみると、「一本紙」を許される者は、もちろん身分は百姓であるが、「格式下し置かれ、御出入仰せ付けられ候者」たちで、それは少なくとも幕末には「御徒士並」「御徒士格」「御足軽格」「名字帯刀御免」などと区別されていたようである。「一本紙」は時代を降るにつれて多くなる傾向がある。           
 なお、項目名の「宗門一礼」は、寺院を除けば、幕末にいたって使用され、それまでは「宗旨請証文」「宗旨御改証文」「宗門御改手形」あるいは単に「一礼」などとなっている。しかし「宗門一礼」は簡略にして、右に述べた意味をよく表しているところから、項目名として採用した。本項目に分類された文書は千二百十七点である。           
 人数増減 この項目には、毎年三月、宗門改めの際、あわせて作成される『人数増減帳』を分類した。総点数百四十三点である。誕生、死亡、縁付、不縁などによる人の移動と増減を示す。ただし、事例の記載のみで全人数の増減の集計はない。『人数増減帳』にも「惣帳」の分と「一本紙」の分との区別がある。           
 五人組 五人組に関する史料は五点のみである。このうち、二冊の『五人組下帳』(一あ・い)は書式からみてもそれぞれ完結したものであるが、両者の前書箇条をあわせると、整理番号二および三の帳面の前書とおなじになる。また、五人組が列挙されているのは整理番号二の『御定書五人組帳』のみである。前書は四十七ヵ条にのぼり、宗門改帳の末尾に添えられた五人組帳のそれが八ヵ条であるのに比して、きわめて詳細であるのが特徴である。           
 送り状 送り状は人の移動にともない、元村あるいは檀那寺から移動先に送付する身元証明兼送籍の書類である。本項目には六点が分類されている。           
 奉公人 奉公人に関する文書と本項目に分類した。主として高木家領から他領へ出稼ぎに行った者に関する文書で、総数十九点である。他所稼ぎ奉公人について全体的に把握できる史料は、整理番号三、四、五、六、八、九などである。これらによれば、かなりな人数の奉公人が出ており、その行先は近江、特に彦根が目立ち、京都、伊勢がこれについでいる。           
 縁組願書 高木家にたいして、縁組の許可を求めた文書である。百六点残っている。           
 戸口その他 失跡、死亡、出養生、家相続など、領民の人事に係わる文書二十六点が分類されている。           
 勘定目録 この項目には年貢収取に関する文書を分類し、なかでももっとも多い文書の標題である「勘定目録」をもって項目名とした。総点数千五百九十六点である。           
 第一のグループは、年貢について総体的に示す文書である。寛永十三(一六三六)年の『知行可納物成帳』(一)が最初のものであるが、累年残っているのは十七世紀後半以降明治初年までである。この二百有余年にわたる文書群は、ほぼ十八世紀半ばを境として、文書の様式に変化がある。もっとも大きな点は、村が主体になっているか否かの相違である。たとえば、承応三(一六五四)年の『太郎八大吉万福納帳』(二一六)をみると、「一、六月十七日二石六斗 大麦 太郎兵衛請取 太郎八」などとある。納めている物は、米、麦、稗、たばこ、ごま、大豆、油荏、こんにゃく芋などで、主として米であるが、これらが納入された日付とともに順次記載されている。これについで、庄屋給、「太郎八ニ下され候」分、奉公人給分、屋敷地分その他が米で記しつがれ、最後に「是迄納」として石高で合計され、未進分が算出されている。以後は未進分の弁済の記載があり、皆済で終っている。このばあい、太郎八が給米をもらって年貢取立てを請負っていることが予測される。           
 これにたいして十八世紀後半以降の『御勘定目録』は年貢の村請を明確に示した年貢納入目録とでもいうべきものである。           
 第二のグループは米納に際して作成された文書である。おもなものをあげると、まず『御領分時多良村々米納帳』がある。これは俵装した年貢米の受取り帳簿である。俵数、米納期日、時間、天候が記してある。このほか、庄屋が提出した年貢米の送り状、年貢取立て役人からの報告書などがある。           
 第三のグループは『御勘定目録』に直接つながるものである。『御勘定目録』の末尾に不足として記された末納年貢を『御勘定目録尻』と呼び、その書きあげの帳簿としてその取立てに関する文書がここに分類されている。なお、「御勘定目録尻并諸運上書出帳」という標題が示すように「諸役」の項目にも関連している。           
 第四のグループは年貢末進に関するもの、第五のグループは引米に関するもの、第六のグループは免定、そして最後に、以上のグループに入らないところの年貢収取に関する文書が分類してある。           
 年貢関係願書 本項目には年貢に関する農民からの願書および請書が四百一点分類されている。年貢をめぐる領主と農民の駆引きを生々しく窺い知ることができる。年貢関係の願書、請書は「願書」の項目にも数多く含まれているので、両項目をあわせて利用されたい。           
 年貢その他 本項目に分類された文書は二百三十四点である。ここもいくつかのグループに分けられているが、まず『添目録』について説明しておく。天保九(一八三八)年十二月の『添目録』(一七)を例にすると、その文言は「御領分時多良村々御勘定目録差出シ申し候ニ付、相改め候所、相違も御座無く、御勘定皆済仕リ候。則ち、御勘定目録十五冊差上げ申し候。以上」とあり、代官から蔵奉行などの上役に提出されている。勘定目録を集めて提出する際の文書であることがわかる。           
 つぎにグループをなしているものは、米相場に関する文書である。なかでも多いのは、主として高田町の商人と高木家役人とのあいだの書状である。高木家では、毎年、高田町の複数の商人から情報を得て米相場を決定し、年貢の換算はこれによった。ここで注意を要するのは、これらの書状のうち、作成と宛名の関係が逆になっているものである。すなわち、作成が高木家の役人で宛名が商人である書状は、実は往復の役目を果たしているのである。高木家側は相場を書き込む余白をとって書状を作り、発送する。これを受けた商人は余白を埋め、さらに上書の自分の名前の上に「下」と書いて「様」を抹消し、高木家の役人の名前の上に「上」と書いて「様」を書き加えて、送り返した。上書に添削のない書状もある。しかしこれを目録に表わすとなるといかにも繁雑になるので、この種の書状は添削前の作成と宛名の関係で採録しておいた。           
 小物成 本項目に分類した文書は四百四十九点である。まず、寛延元(一七四八)年から天明四(一七八四)年まで二十三冊残っている『小穀勘定目録』(「小物成勘定帳」ともいう)についてみていく。この目録は十二月に作成されるものであり、一年間の小物成の決算を示している。記載の様式を簡単に紹介すると、穀類別に、前年の繰越し分と「村々納り」が記され、合計されている。「村々納り」の明細はない。つぎに「内払」として各所の支出分が記されている。たとえば「奥様」「霊鷲院様」「正林寺」「江戸へ下ス」など現物による支払いと、単に「払」として換算率と代金を記し、換金した分ではないかと思われるものとがある。これらが合計され、さきの入分と差引きして、その年の暮れの「御蔵有高」が記されている。この帳簿は小物成が現物と代金の二とおりで処理されていく過程と、その決算が示されている。           
 つぎに、天明五(一七八五)年から文政六(一八二三)年まで三十七冊残っている『御領分小物成万納覚帳』をみよう。これによると、六月の大麦、小麦、懸茶、八月の稗、真綿、綱苧、渋、十月の大豆、小豆、荏、胡麻の合計十一品が小物成として徴収されていたことがわかる。それぞれは納入の日付と量が村ごとに記され、時・多良両郷分が合計されている。さらにこれらのうちから処分された量とその理由が書きあげられている。各品の決算はなされてはいない。           
 つぎに、文政八(一八二五)年から安政五(一八五八)年まで三十二冊の『小穀納払帳』をみる。これは用人懸り、蔵奉行、蔵吟味役によって作成される帳簿である。この帳簿では村ごとの記載はふたたび姿を消し、時・多良両郷別か、あるいは両郷合計でしか記されていず、むしろ蔵の出納長の性格を濃くしている。           
 以上が小物成を総体的に把握しうる史料のおもなものである。この項目のもう一つのグループは、実際に小物成を取立てるときに作成された書付類である。時期的には一八四〇年代以降にかたよっている。これらの史料を整理すると、取立ての手順がわかる。まず台所方役人が取立てるべき小物類の相場を美濃高田の二、三の商人に書状で問合せる。商人からの返事を勘案して、小物蔵掛りが上役に伺いをたて、決定された相場を小穀蔵奉行の用人から代官へ通達する。これを受けた代官は村々の庄屋にあてて『小穀触廻状』を廻し、上納を命ずる。上納された小穀は代官によってまとめられる。以上が小穀取立ての手順である。           
 国役金 美濃国における国役の大きな部分をなす治水の人夫役は、高木領内は免除されていたので、このばあいの国役金とは、「朝鮮人来聘御用」「琉球人参府御用」「日光御法会」のための国役金上納の三種類である。これらの文書をおもな内容にして、二百六十五点が本項目に分類されている。            
 朝鮮国使節は慶長十二(一六〇七)年を最初として十二回派遣されるが、本文書にはそのうちの六回についての文書が残っている。すなわち、天和二(一六八二)年、正徳元(一七一一)年、享保四(一七一九)年、寛延元(一七四八)年、明和元(一七六四)年、文化五(一八〇八)年の六回分である。 「琉球人参府御用」関係の文書は、寛延二(一七四九)年、宝暦四(一七五四)年、明和元(一七六四)年、文化三(一八〇六)年、天保三(一八三二)年、同十三(一八四二)年、嘉永三(一八五〇)の七回分が残っている。           
 日光法会の「道中筋宿々継立て人馬そのほか御手当」のための国役金は、文化十二(一八一五)年と慶応元(一八六五)年に取立てられた。文化十二年の国役金は、日光法会のための御用を勤め、手当を支給された宿、およびこれとは別に定助郷渡船川越などの御用を一年に十日以上勤めた村は免除された。高木領はそのかぎりではないので、五ヵ年間に七両余を上納した。           
 助郷 高木領の村々は元来助郷役を勤めてこなかった。中山道今須宿内に道路の清掃、修繕の丁場をあてがわれ、請負人をたてて勤めてきたことが、宿場との唯一の関係であった。ところが、文久元(一八六一)年の和宮下向の際に「今度限り」ということで「加助郷」を命じられた。さらに文久三(一八六三)年十二月に、今須宿が道中奉行の判物(三あ)を送りつけ、助郷人足を請求してきた。判物は、幕末の政治情勢を反映して煩繁になった「御用旅行」に加えて、参勤交代制の緩和による大名家族家来養子の引越で急に増加した交通量を捌くために、多良郷の堂之上村、奥村、北脇村、時郷の下村、打上村、細野村、上村、時山村に当分のあいだの助郷を命じていた。さっそく村々では高木家にたいして窮状を訴えた(四)。高木家でも「御百姓共立潰れは眼前にて上下共極難之次第」を道中奉行に訴えた。その結果は不明であるが、高木領の村々が人足を負担したという史料は残っていない。           
 明治二(一八六九)年の『今須宿助郷付属歎願書写』(五)によると、維新政府による助郷組替えにともない、高木領の村々はあらたに助郷村に組みこまれている。           
 助郷関係の文書は十六点である。           
 夫銀 この項目に分類した史料はおおむね郷段階のもので、すなわち「大割」に関するものである。総点数六十五点である。享和元(一八〇一)年十二月付『夫銀打割帳』(五)を例にして、その記載内容と操作を紹介する。まず村ごとに、その村が負担した夫銀で郷段階で清算すべきものが列挙され、合計されている。そのなかには「時山あるき」「土屋様人足」「高田行馬平四郎」などの人足馬匹の代銀、代官への「郷注より筆墨紙代」「布一反代」、「米納時、郷中入用」「川除御造用」「割下用」等々である。ちなみに「割下用」とは郷内の各村庄屋が寄合って、いま問題にしている夫銀の割付作業時の入用のことである。作業の場所は村役人の自宅を順番に提供しあい、そこを「宿」と呼んでいる。この下用の内容は、ろうそく、紙、墨などの代銀のほか酒代などを含むこともあった。こうして各村負担の夫銀は合計され、村高に比例して配分される。これを「当り銀」と呼ぶ。各村ではすでに負担してある夫銀と「当り銀」とを差引きし、お互いに清算しあう。これで「大割」の操作は終る。あとは「当り銀」を村に持ち帰り、村入用とあわせて各農民に割りつけ、負担させていくことになる。           
 諸役その他 この項目に分類した文書は主として運上金に関するものである。商人運上として時郷の八人から銀六十匁五分を取立て(五)、六人から川運上金一分二朱と銀二十匁を取立て(一〇)、大工土挽運上は、時郷で六人、多良郷で七人、おのおの三匁ずつ取立てていることがわかる(一一)。総点数は十七点である。           
 村況 この項目に分類した史料は大部分が村明細帳である、年代からみて、大津県令所宛の雛形以外は、笠松県役所へ提出したものの控えであろう。明治二(一八六九)年、笠松県は管轄の村々に一斉に村明細帳を提出させている。本文書に残るこれらの明細帳もその一環と判断される。本項目の総点数は十二点である。           
 村役人 この項目に分類した文書は村役人の任免に関するものが大部分である。このほか村役人の印形に係わる文書が六点ある。総点数五十七点である。           
 村入用 この項目に分類されている文書は「御役人馬并村入用御印紙帳」と呼ばれるものである。領内の全村から毎年提出された。現在残っているのは、寛政二(一七九〇)年から明治元(一八六八)年まで四百三点である。その内容をみると、年次によって必ずしも一定しないが、多良郷のほとんどの村との時郷の一部の村のばあい、つぎの三つの部分から構成されている。第一に「御役人馬」と呼ばれている部分と、第二に「村入用」あるいは「夫銀之覚」としてある部分、第三は各農民負担分の書きあげで、「小前付」と呼ばれているばあいもある部分である。少なくとも後二者ほどの帳面も備えているので、村入用帳の性格を基本的に備えていることにはちがいはない。そのうえで問題にされなければならないことは、「御役人馬」であり、それが村入用と併記されていることの意味についてである。           
 明治元(一八六八)年の一連の帳面によって、まず「御役人馬」の内容についてみると、土木工事、荷物運搬、駕籠かきなどの人足と荷馬がその内容である。荷馬には馬子がつくのであるから、どちらにしても人による労働力の提供である。さらにそれが、軍事訓練場地ならし、暖地峠番所大工手伝、室原まで女中両懸持ち人足、用人渡辺佐次右衛門駕籠人足などであることから、明らかに領主にたいして労働力を提供しており、言いかえれば領主による労働力の徴発=夫役である。           
 つぎに、この夫役と村入用とが帳簿上いかなる関連で併記されているかをみる。人足および荷馬は一人銀一匁、馬一疋一匁三分で計算されている。その合計は直接その村で負担するのでなく、「大割江出すべき役掛り」とされているように、郷段階でのほかの諸入用とともに「大割」として郷内各村に割りつけられる。こうして村高に比例して配分された分を「大割当り」といい、「御役人馬」を出した村は実際の労働力ですでにその一部を負担しているのであるから、差引き清算をし、残りを村入用と合計し、村内の各農民の持高に比例して割りつけ(=「小割」)ていく。つまり「御役人馬」と村入用は操作上でもはっきり区別されており、ただ最終的に両者合計されて各農民の負担とされるという意味において併記されているのである。           
 出入 この項目には村政上の出入に関する文書を分類した。総点数二百二点である。以下、おもな事件について、その概略を紹介していく。           
 明和六(一七六九)年から翌年にかけて奥村で庄屋跡役をめぐる出入があった。高木家が暫定的に庄七と孫兵衛に肝煎役を命じたことに端を発し、村方は両派に分かれて争い、一時は村を二組に分けるとの話も出た。結局、庄七派が農民を天王へ招集し、「騒動がましく申合」いをしたので領主の弾圧を受け、庄七は村払いとされた。           
 つぎの事例は時山村を彦根藩領五僧村との炭売買をめぐる争論である。時山村では五僧村を通って彦根へ炭を売りに行っていた。その際、五僧村へも炭を売るという約束をしていた。その約束の履行をめぐって、安永二(一七七三)年と天明四(一七八四)年の二度にわたって争論がもちあがった。結局、両村はおたがいの村内の通行を保証し、また売炭払底の折はその旨事前に五僧村に知らせ、売買の可能な期日について連絡をとりあうことを確認して、争論を終結させた。           
 天明元(一七八一)年には下多良村八幡宮祭礼妨害事件があった。天明元年五月~八月の『日記』八月十七日条に、「下多良村御百姓共のうち、宣しからざる者有り、何事によらず不埒の取計い仕る。かねて仰出でられ候拾五ヶ条のうちにも、有来り候神事仏事等も相替わらず村方和して取計い候様との儀も有り候儀、右御条目にもかけ、追々不屈の儀多き趣き」を知り、領主自ら「かくし目付」を放って内偵させたところ、「不屈者」四、五人がわかったので吟味を命じたとの記事がある。吟味は藤内など八名であった。吟味は主としてつぎの二点でおこなわれた。第一点は村人を煽動し騒動におよんだこと、第二点は八幡宮の祭礼を妨害したことの二点である。このころ久津羅木山をめぐり山支配と下多良村とのあいだに訴訟がもちあがっていた。この山論が背景にあったことは確かである。結局、藤内の所払いをはじめ数名の処分があった。           
 文政十一(一八二八)年には、細野村と下村久保の清兵衛とのあいだに土地の帰属をめぐって争論があった。元来細野村の地内であった二反ちかい土地が、下村の農民のあいだで転売されているうちに帰属が不明確となり、争論におよんだ。その結着がつかないうちに、細野村が「村内申合い、論所へ鍬入れいたし」たものである。結局その土地は領主に引上げられ、加えて、細野村に庄屋の退役、頭取の戸〆、惣百姓叱りの処分があった。           
 弘化二(一八四五)には下多良村で庄屋の帳面つけまちがいから定来の計算ちがいが生じ、これを糾明して小前百姓が「騒ぎ」、領主の吟味を受けるという事件があった。           
 嘉永七(一八五四)年には時郷上村々の小前百姓一同が山の処分をめぐって村役人と争い、「「強訴同様」の行動を起こすという事件があった。これは領主が「非常御手当金」の調達を命じてきたので、村役人が山を売払ってそれにあてようとしたことがきっかけとなったものである。           
 安政三(一八五六)年下多良村の元庄屋と村方との争いがあった。調達金、年貢、土地をめぐる疑惑で、村方は帳簿の閲覧を要求したが容れられず、騒動となった。結局、取扱人が仲介し、帳簿の引渡しがされて和談が成立した。           
 慶応元(一八六五)年には細野村庄屋と小前百姓とのあいだに騒動があった。四、五ヶ所の土地に不明が生じ、庄屋円八が地改帳を紛失したことをめぐってひき起こされた。高木家まで庄屋を解任し、他村の庄屋を兼帯庄屋に任じて調査させた結果、地所の不明な点はなくなり、落着した。           
 村政その他 この項目には、番人、稲植付け、村方引継文書、郷蔵その他に関する文書二十点が分類されている。           
 幕法 この項目には幕府の触書が分類してある。正徳三(一七一三)年の『御公儀より出候御書付留帳』を最古のものとして四百三十四点である。触書留と実際に領内に廻した触書とにグループ分けてしてある。文化十一(一八一四)年の『御触書改帳』(B・四・三-七)には、その後の書き加えも含めて、天保初年までの触書留の目録があるが、このうち宝暦年間のものに若干の欠があるほかは、この文化十一年段階の蓄積をほぼ完全に維持して今日にいたっていることがわかる。もちろん、それらに加えて、天保期以降の触書留を年々蓄積した結果が、本目録にみえるところである。           
 また、少なくとも寛政六(一七九四)年以降の年代の触書留はおなじものが二冊あり、江戸留守居方と在所との双方に蓄積されたものが伝えられていることを示す。           
 家法 この項目には高木家が独自に発布した法令百十三点が分類してある。内容的には、主として、生活規制、農業生産に関することなどである。家中宛のものとしては、高木修理貞蔵が家督を継いだ明和三(一七六六)年の『定』(一〇、一一)をはじめ、数点ある。このほか、文政八(一八二五)年の家政改革に関する史料、家臣勤め方規定、家中倹約仕法などは家法に類するものであるが、ここには分類せず、「財政」「家臣」の項目に分類されている。           
 法令その他 この項目には、他領の法令、江戸における廻状留、触書目録と御札入用や治安に関する文書などが分類されている。総点数三十点である。           
 願書 この項目には千三百五十三点が分類されている。さまざまな内容をもった文書からなっているが、なかでも多いのは、年貢、芝居・角力興行、法会執行、縁組、村政に関する願書および請書である。           
 出入吟味 この項目に分類されている文書は六百七十八点である。土地に関するものが多い。

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『高木家文書目録』巻二



 茲に高木家文書目録巻二を刊行できたことは、私たち関係者にとっては、大変喜ばしいところである。本巻は、調査室員西田真樹助手の執筆した詳細な解題に説明されているように、巻一(昭和五十三年三月刊行)に引続き、支配、家臣、勤役に関する文書の目録を収めている。           
 私たちは、これらの文書を通して、幕藩体制を支えていた家臣団の構成と動態、その支配下にあった農民の闘争、さらに当時における災害と土木関係等について、多くのことを知ることができるのであって、それらは幕藩体制の研究に新しい視野を拓いて行くであろう。           
 古文書の整理には、その解読、史料的性格の判断、分類等に多大な労苦を必要とする。高木家文書調査室の全体の運営に当られた運営委員会の委員はもとより、労苦の多い作業を直接担当した西田室員、笹本正治助手および補助員の方々に深甚の謝意を表しておきたい。           
 なお、巻一に引続き本巻にたいしても刊行費を支出された文部省学術国際局情報図書館課の御好意に心から感謝するものである。           
 昭和五十四年三月           
  名古屋大学附属図書館長           
        横越 英一


解題


 本巻に収めた史料は総点数一万七十点である。その内訳は、大項目「支配」のうち前巻に収録しなかったもの四千六百六十四点、大項目「家臣」千四百十九点、大項目「勤役」三千九百八十七点である。           
 「支配」の項目で、本巻に収められた中項目はつぎのとおりである。「一揆」(二百四十九点)には領主高木家にたいする領民の闘争にかかわる史料を分類した。「災害」(百二十九点)には、被災地の見分関係文書(「知行地」)、年貢減免関係文書(「年貢」)、復旧工事関係文書(「土木」)以外で、被災の一般的状況報告や窮状訴願の史料、および火災に関する文書を分類した。「土木」(五百五十二点)には、災害や農地開発などを契機とした土木工事に関する文書を収めた。領内の河川の改修及び用水管理は、高木家が幕府から与えられた役儀としての木曾三川治水とはちがい、自らの知行地に発動される領主権にかかわる事柄であるので、ここ「支配」の項目に分類してある。「林野」(千五百八十三点)には、高木家による山林管理、山論への介入など、林野支配に関連して成立した文書を分類した。「寺社」(千四百八十七点)に分類された文書も、寺社統制の過程で成立したものである。「救済・顕賞」(四百五十五点)には、高木家による支配の一側面である「仁政」を示す文書を分類した。ただし、救済の名のもとにおいてなされる年貢減免はここには含まれない。「交通」(二百九点)には、隔地間における人の往復、貨物の輸送、意思の通達に関する文書を分類した。           
 「家臣」には高木家の家臣にかかわる文書を分類した。まず、家臣団を総体的に把握できる史料を「分限」(三百五十九点)とした。つぎに、個々の家臣の取立て、出仕から致仕、退身まで、およびその間の具体的に勤務に関する文書を「勤仕」(六百三点)に一括した。さらに、相続、隠居、婚姻、養子、拝領屋敷に関する文書を集め、「家」(二百五十八点)とした。以上の枠に収まらないものを、最後に「その他」(百九十九点)として一括した。           
 「勤役」には幕府にたいする高木家の奉公に関する文書を分類した。高木家文書には、幕府中枢の動静を知り、政情を把握するための文書、記録が実に豊富であり、同家の関心の高さを示している。それは領主階級の一員たる者にとって当然のことであり、いわば奉公の一形態ともいえる。したがって、これを「幕府」(千四百三十点)として一括した。「参勤」(千五百九十三点)には、将軍に目見のための参府の発途、帰邑、往復道中、在府中の文書、記録を分類した。「軍事」(九百六十四点)には、幕府から公式に課された軍役の準備としての軍備関係文書、そして武術に関する文書を分類した。なお、木曾三川治水は高木家にとって勤役の重要な柱であるが、関連文書は厖大なものであり、本文書の特徴を示すものであるので、特に別項目とした。           
 以上が本巻に収録された大項目、中項目の内容規定である。以下、小項目ごとにその概略を述べていく。文書名の下の括弧内数字は文書の整理番号である。           
 一揆 この項目には、高木領内の農民闘争史料六件分と、これに他領におけるものその他を加えて、二百四十九点を収めた。           
 元和九(一六二三)年七月、高木三家領多良村の百姓が美濃国奉行岡田将監に訴状を提出した。内容は、年貢、小物成、夫役の不当で過重な取立てについてである。これにたいして、高木三家の反論、譲歩を示す文書や、岡田将監の調停の内容を示す文書も残されている。ただし、これらの文書はみな写しである。注記によれば、文政二(一八一九)年に筆写したもので、「本紙は東様に有る由」である。           
 文化十四(一八一七)年六月に、主として下多良村の百姓が「御代官をも指越し、大勢申合い御門内へ立込み、御役威をも憚りたてまつらず、御直願を乞いたてまつり候」という事態がおこった。これは家老土屋舎人の仕置を役人たちがゆるがせにしているのではないかとの疑いを持った百姓たちがひきおこしたことである。この一件で庄屋の喜田孫治が追放処分を受け、惣百姓は呵込みの処分を受けた。土屋舎人は遅くともこの年の十月には家老職を解任されている。土屋の処分を百姓たちが要求した理由は不明である。関連すると思われることは、この年の四月に、土屋舎人が、用人の小寺牧太とその忰織衛、およびその親類の喜田孫治等を、領主の名をかたり謀計をもって御用金を詐取したとして、江戸北町奉行所に出訴していることである。関連文書は「家臣・その他」の項目にある。           
 文政六(一八二三)年の三月から四月にかけて、西高木家領の時郷下村、長屋村、久保村で騒動があった。ただし、この事件については本項目に関連文書はない。「家政・日記・御用日記」の項目に分類した日記(一八三)にその記述があるが、破損が甚だしく、現段階では利用不可能である。さいわい、名古屋市蓬左文庫所蔵の東高木家文書に関連文書がある。それによれば、床屋役変更、郷目付新設、田地改め、内用金取立てを不満として、百姓一統が騒動をおこした。百姓側は郷目付の居宅をうちこわし、ついで代官をはじめ数軒のうちこわしに出ようとした。これにたいして高木家では、当主の妻の在所である膳所本多家から役人と十数人の取手を迎え、牢舎を新築して鎮圧にあたった。百姓たちは山に籠りながら、東と北の両高木家に駈込み願書を提出して抵抗した。結局、新庄屋の罷免、郷目付の処分をかちとって、騒動は終熄している。           
 弘化二(一八四五)年七月の多良九ヵ村一揆関係史料はもっとも豊富に残されている。一揆の準備、前段階、発端、蜂起時の百姓側と領主側との交渉過程、領主側の対応、参加者の取調べ、処分など、当事者が実際の渦中にあって記したものを中心にこれほど豊富に残されているものは、全国的にもきわめて稀であり、一揆研究上、貴重な史料である。この一揆は、高木家の財政窮迫から、領内農民の所持田畑、作徳米等を抵当にして、紀州名目金(志賀谷金)を借用し、その返済をめぐって、百姓側が台所方役人の家宅をうちこわし、関係役人の罷免を要求し、要求が入れられなければ「この末、百姓共いかようの義仰せ付けられ候とも違背仕リ候」と「押し願い」したものである。なお、一揆の訴状(一五)は口絵に掲載した。           
 万延元(一八六〇)年には張訴があった。張訴の日時、その文面を示す史料は残されていない。「当年世上、穀物ならびに諸色とも高値の年柄につき、人気騒がせ候積りにて張訴等仕る」とは領主側の判断である。主謀者の一人文内の供述書である『口上』(一六四け)があり、その主張を知ることができる。そこには領内三十数名の床屋の「品定め」と忌避がなされ、政道批判が窺われる。結局、文内は永年を言いわたされ、いま一人の主謀者である大橋助市は出奔のまま闕所とされ、妻子は領外に追放された。「人別改」の項目に分類した「墨色調帳」はこのような事態のなかで作成されたものであった(巻一解題二十一頁)。           
 明治二(一八六九)年六月、「時郷六ヶ村百姓共一同」は笠松県に歎願書(一八六、一九一)を提出した。歎願書は十七ヵ条からなっている。「悪しき振りを御一新相成り、下々窮人共露命相継ぎ候様、御慈憐の御取計らい、幾重にも御歎き申し上げたてまつり候」と結んでいるように、新しい時代を迎え、高木家支配下の旧弊を一掃しようという積極的要求項目である。事態は、主として村落上層と小前百姓の対立激化の方向で、九月まで推移していく。その間、高木家は新政権下における家の存続にとってこの一件が悪影響を与えるのではないかとの危機感を深めるものの、なんら有効な手段を講じえない。高木家の動揺ぶりは家臣の書状下書(一八七)に現われている。           
 他領の百姓一揆に関するものでは、安永二(一七七三)年の大原騒動について、出陣した大垣藩からの状況報告の文書がある。           
 領内災害 この項目には、領内被災状況報告書と火災に関する史料を中心として、百点が分類されている。           
 明和五(一七六八)年の災害を例にしてみると、この年には洪水と早魃があいついでいる。洪水では高木三家領で約九百石の荒地が生じ、立毛は皆無という状態であった。このため幕府に被害状況を報告するとともに、救済を歎願した。その願面に、「知行所引替えの儀も願いたてまつりたく存じ候え共、先祖より代々当国に罷り有り、拝領仕来リ候領知の儀、その上、濃州勢州尾州大川筋御普請所ならびに国役御普請御用も相勤め候儀ゆえ、御引替えの儀は願たてまつらず候え共」として、(1)幕府による護岸、水制の復旧工事、(2)埋没、流失の田畑の起返し作業に扶持米の支給、(3)家臣扶助、百姓手当米として一ヵ年の年貢分の拝借などを願い出た。これをうけて幕府は「濃州勢州尾州大川筋御用相勤め、その上、誠に自力に及びがたき趣につき、格別の訳をもって」、西高木家に二百五十両、東、北高木家にそれぞれ百五十両ずつ貸与した。           
 災害風聞 この項目には高木領以外の災害に関する史料二十九点を分類した。江戸の火災については、かなり詳しい記録を残し、また瓦版などの資料を入手している。嘉永七(一八五四)年十一月四日の地震に関する史料は八点残っている。そのうちの『大地震ニ付諸家様より御届之写』(五)は諸大名の領地における被害状況の幕府への届出書を書き写したもので、相州小田原、豆州下田、駿州久能山、沼津、田中、遠州掛川、横須賀、今切関所、信州松代、三州吉田の被害がわかる。           
 領内治水 領内治水関係の史料は宝暦七(一七五七)年のものにはじまり、明治初年のものまでが残っている。残りかたには片寄りがあり、おもな史料については、天保初年まではまばらである。しかし、天保五(一八三四)年以降は『川除目論見帳』だけをとっても、ほぼ毎年の分が残っているので、幕末の治水状況はおおよそ復原できる。本項目に分類した史料は三百五十七点である。           
 時多良両郷は支配関係が複雑に入組んでいた。そのため、大規模な治水は一所領内だけでは完結しえず、「御立会」による普請が必要となる。たとえば、宝暦十一(一七六一)年八月付の『多良村々川除目論見帳』(五)によれば、田村という土地の川除を、領有面積に応じて七領で分担している。これにたいして一領域だけで完結していると、このばあいは西高木家のことであるが、「御一方」ということになる。  天保十五(一八四四)年八月付の一連の史料により、川除普請の手順を知ることができる。まず、時郷下村庄屋の作成になる『御立会川除御目論見帳』(五五)には、普請場所、工作物名、数量、材料費、作料、人足数が書きあげられ、最後には総経費が記されている。この経費を「二十一半割」にし、「西様御当り」など三家の分が計算してある。「二十一半割」とは、十一・五対五に比例配分することであり、この比は高木三家の知行高の比である。この帳面は代官所に提出される。おなじ下村の『御壱方川除御目論見帳』(五七)、山上村の『御一方川除御目論見帳』(五六)は西高木家だけが関係する場所の目論見帳である。これらをもとに「御領分掛り」の役人が現地に赴き、その普請要求箇所を見分し、それぞれに普請の適否、規模等の判断に加えて作成されたものが『時郷村々川除御普請目論見野帳』(五八)である。つぎに位置する史料が『時郷村々川除御普請目論見帳』(五九)である。これは『野帳』を整理したもので、帳尻にはその年に必要とされる普請費用のうち西高木家分を合計し、前年と額の増減を計算したうえで、「右の通り当辰年川除け定式御普請目論見見分仕り候。書面の通り仕立てかた仰せ付けられ候様仕りたく、この段伺いたてまつり候」とし、見分役人の署名捺印をもって、家老に差出されている。これが認められてはじめて普請が開始されることになる。           
 以上のような毎年きまっておこなわれる「定式御普請」のほかに「急破御普請」といって、応急的な普請もおこなわれた。「定式」にせよ「急破」にせよ、その費用は「財政・村請支出」項目に分類される『川除御入用并ニ諸職人其外品々御書出シ帳』の一費目として計算され、年貢から控除された。           
 用水 この項目には、高木家領内における用水取立て、利用、それらをめぐる争論、用水の修復、井領米などに関する文書が分類されている。総点数は百九十五点である。           
 山林 高木家では、山奉行、山吟味役、山廻り役などを置き、山の支配にあたった。この項目に分類した文書はこれらの役職によって作成された文書や、村々からの文書で、総点数九百四十八点である。           
 『掟山年貢取立帳』は、領内の村あるいは個々の農民に掟山として山の利用権を一時的に与え、その見返りを年貢として取立てたときの帳簿である。また、『御山諸事(色)覚帳』は山奉行などの役人が毎年作成した帳簿である。これは領主支配下の山仕事について記帳したもので、たとえば、紫、割木のできあがり束数とその人足数、作業日、作業場所の書きあげ、杉枝の打ちの作業日と人足、木挽人足、杉苗植え人足、材木払下げ入札覚、山廻り覚などが記してある。高木家の幕末における山林経営の一端はこれにより復原可能である。           
 領内には幾利山という深い山がある。この山の大部分は近江側の村々がふるくから利用してきたようである。延宝二(一六七四)年二月の『御請山証文之事』(一〇五)によれば、この年以前から「御請け来っ」ていたことがわかる。坂田郡本郷村、堂谷村、一色村、長岡村、万願寺村、梓村、河内村の七ヶ村が合計十石の山年貢で「御山入り」していた。これら「上村々」と呼ばれる七ヵ村(これらはさらに五ヵ村と二ヵ村に分けられている)とは別に、「下村々」として」柏原宿、岩ヶ谷村の二ヵ村も八石余の山年貢を払って利用していた。高木家では毎年十二月に足軽を派遣してこの山年貢を徴収した。なおその際、徴収した山年貢のうちから柏原宿山根孫九郎などの「御出入」の者へ扶持米を支払った。のちの「財政・その他・御出入方扶持」項目に分類されるべき文書が、その支払い手続のゆえに「山林」項目にも分類されていることは注記しておく。           
 このほか系統的にではないが、領内の山の入札関係文書、請負証文、木数調査関係書付等々がここに集められている。           
 山論 本項目に分類した文書は六百三十五点である。おもな争論はつぎのとおりである。           
 寛永三(一六二六)年に美濃国奉行岡田将監の仲介で結着のついた時村と時山村の争論は、時山村の山へ時村の者が立入ることをめぐっておきたものであった。時山村の夫銭を時村が負担し、そのかわりに時村は山を利用することができるという解決であった。           
 安永三(一七七四)年の幕領小山瀬村と東高木家領欠之脇村との争論は、直接的には、小倉谷にある小山瀬村の田所を欠之脇村の牛馬が踏み荒した事実の有無をめぐっておきたものである。その背景には両村の小倉谷開墾の利害対立があったものと思われる。           
 安永六(一七七七)年の左谷山争論は、青木縫殿助知行所猪村尻村繁右衛門、樫原村庄屋文右衛門、別所孫右衛門知行所上原村惣次郎の三人が、幕領小山瀬村を相手取りおこしたものである。幕府評定所派遣役人松井官兵衛、門奈道右衛門の立入り見分を受け、小山瀬村の左谷山への入会が認められた。           
 天明二(一七八二)年十一月付『久津羅木山出入済口証文』(一四)によると、五人の山支配と下多良村とのあいだに山の支配をめぐって争論がおこっている。すなわち、山手米と竈運上金取立ての権益を確保しようとする五人と村持の山であると主張する村方との争論である。結着は、山手米と炭焼運上を一緒にして庄屋に納め、そこから上納分を差引いて、残りを山支配五人へ手渡すこと、一定の範囲内は村方から自由に山稼ぎが許されること、などとなった。           
 文化六(一八〇九)年に、時山村と五僧村が立脇峠の境争論をひきおこした。これは美濃と近江の国境であり、高木家と井伊家の領境でもあるので、慎重な掛引きがなされている。さらに、文政元(一八一八)年、天保九(一八三八)年にも問題が再燃している。           
 文化十三(一八一六)年から文政三(一八二〇)年にいたる上村と時山村の山論がある。論地は、上村では字今やけ、時山村では地蔵向と呼ぶ地域で、上村に言わせれば伐採しておいた柴を時山村が盗み、時山村に言わせれば盗伐を摘発したので柴を取りあげたことが発端となり、同地域の帰属をめぐり争われることになった。文化十四(一八一七)年に裁許が申渡された。それは、当該地域での柴刈は双方とも「その日取り」にすべきこと、幾利谷の入口より上へは上村の者が鍵などを持って入山しないこと、上村の者が時山村へ草刈に入るばあいは慎重にすべきことの三ヵ条が申渡された。しかし、上村をはじめ、時山村を除く時郷のほかの村々がこれにたいして不服を申立て、結局、文政三(一八二〇)年に、高木三家の新類でもある本多家、市橋家、間部家が仲介し、上村からの草刈りは時山村中どこでも自由にできることになったほかは、ほぼ前とおなじ条件で和談が成立した。           
 文政四(一八二一)年からはじまった下多良村と尾張藩石河家領市之瀬村の山論関係文書は、上中下三巻の冊子の形態になっている。それぞれには原文書が簡単な注記とともに括りこまれている。いつの時代にか編集されたものである。これと関連して、小原平と伝四郎屋敷という地域をめぐる争論がおなじ年に両村間にあり、尾張藩の鵜多須陣屋に持ちこまれた。こちらの方は天保二(一八三一)年ごろまで長引いている。           
 文政六(一八二三)年には鍛冶屋村と下多良村が勝地山をめぐる争論をおこした。翌七年には訴訟となり、鍛冶屋村が下多良村を訴えた。しかし結着がつかず、同九(一八二六)年以降は「山留め」として双方の入山が禁止された。その後、嘉永五(一八五二)年に、一部を鍛冶屋村のものにし、残りを入会とすることを内済した。           
 天保五(一八三四)年には、時郷の細野村とほかの六ヵ村とのあいだに熊坂谷の林の利用をめぐって争論がおこった。六ヵ村側は、立木を伐採して炭に焼くために「大勢申合い理不尽に立入り」「切荒し」てしまった。そこで細野村では、ここは「本山」で水源確保のために伐採してはならないことになっており、不当であるとして高木三家に訴え出た。これにたいして六ヶ所村側では返答書を提出し、この林は凶年の備えとして囲い置いたものとで「水山」のためではないこと、伐採しても水不足にならないこと、また伐採は細野村も含めた郷中の庄屋立会いでの決定であることなどをあげて申しひらいた。結局裁許にはいたらず、林の半分を伐採し、半分は凶作に備えて残すことで内済した。           
 この年には小倉山をめぐって、欠之脇村、名及村、猪尻村、樫原村、堂之上村の五ヵ村と小山瀬村との争論もおきている。小山瀬村の主張は小倉山は自分の持山であるということである。これにたいして五ヵ村は、古来より五ヵ村の入会山であり、小山瀬村は入山できないと反論した。小山瀬村の江戸出訴により、幕府評定所は代官辻富次郎などを派遣して吟味した結果、どちら側にも決定的な証拠がないので、天保六(一八三五)年十二月に双方入会の裁許を下した。           
 おなじく天保五(一八三四)年、「時山村に当午年、苅畑大造に仕立て候につき、時郷村々草苅り差支え候旨願い出、双方御糺し一件」がもちあがった。これは前出の文化十三(一八一六)年にはじまり文政三(一八二〇)年に決着のついた争論に関連がある。そのときの約定の一つに、時山村内において時郷からの草苅りを保証するとの一条があったが、今回の事態はそれに違反するものとして、時山村は三石二斗の蕎麦を没収され、以後の「苅畑新聞」を禁止された。           
 寺社由緒 本項目には、寺社の格式、寺号、本末関係に関する文書五十二点を収めた。格式を示すものは数多くはないが、元禄十四(一七〇一)年の隠丈寺薬師堂への一人半扶持と茶園の寄進状(一)、享保十四(一七二九)年の正林寺取建て関係文書(一六)が古い例である。本末関係を示すもので、本山から高木家に領内の末寺の改派押えを依頼してきたときの文書七点もここに分類した。           
 住職 この項目には、住職、神主およびそれらの家族の人事に関する文書百六十三点を分類した。これらの文書は内容上で三つに分けて収載した。第一に、住職の就任、引退、昇進、処罰に関する文書である。第二は、縁組に関する文書である。願書は同宗の別の寺院の取次により寺社懸り役人に提出されている。最後に、寺内の者の人事に関する文書を集めておいた。           
 殿地 この項目には、堂宇社殿、什物、土地に関する文書二百三十四点が収められている。まず、堂宇社殿の修覆関係の文書をひとまとめとした。正林寺、正覚院、神護寺、流彦大明神などの名前が見える。高木家が直接普請に関与したことを窺わせる史料が多い。           
 つぎは什物に関する文書である。ここには、本尊にはじまり日用諸道具にいたるまで、寺社の宗教活動および日常生活にとって欠くことのできない物品について知ることのできる文書が分類されている。たとえば、『正覚院 隠丈寺 什物帳』(三四)はその一覧である。安政三(一八五六)年から翌年にかけて、笠松代官所により、「大炮小銃に御鋳替え」のために梵鐘の調査がされている。このとき、高木領内諸寺院から提出された梵鐘の有無についての上申書、据え置き歎願書などもここに分類してある。なお「幕府」の項目に関連文書がある。           
 寺社の土地に関する文書は、高木家からの免許状がおもなものである。浄土真宗大谷派中山の大橋唯願寺、臨済宗妙心寺派正林寺、真言宗正覚院、隠丈寺、流彦大明神神護寺に免許地が与えられている。           
 勤行祭式 この項目には、寺社の宗教活動に関する文書が二百九十七点集めてある。それらは、領内寺院の勤行関係、領内神社の祭式関係、領外寺社の勧化関係の三つに分けられている。           
 檀家 本項目の総点数は八十六点である。宗門改めと檀那寺への不帰依事件に関する文書が多い。           
 文政十二(一八二九)年に上方において「邪法」が露顕し、幕府は宗門改めの徹底を指示してきた。これにより高木家では、翌年八月から準備を開始し、十月に入り四日間にわたって、領内に実施した。目録に見られるとおり、家臣から農民まで「達書」「届書」「証文」を提出している。このとき「教誡」として演説されたものが『御役方於御出張之席邪法御教誡仕候次第』(四も)で、その内容の一つは慶長十八(一六一三)年五月に幕府より諸寺院に宛てられた十五ヵ条(『徳川禁令考』昭和三十四年創文社刊所収「御条目宗門檀那請合之掟」)である。           
 出入 この項目には、寺社をめぐる争論に関する文書六百二十点を分類した。そのうち、時山村の道場についての争論関係文書が過半を占めている。この争論は、時郷にある寺院の門徒である時山村の村民たちが、自村の道場に結集して自立を企てようとしたことが原因となって発生したものである。宝暦十三(一七六三)年には、時山村の門徒と時郷の僧侶およびその門徒とのあいだの暴力沙汰がおき、ことは評定所に持ちこまれて訴訟となった。この訴訟は半年後に内済するが、翌年には事後の処理をめぐって、西高木家と時山村の西高木家領の農民との争いが勃発した。農民たちは大挙して江戸に出訴し、入牢の処分を受けた。この事件はその後も長く尾を引き、寛政三(一七九一)年に最終的な結着をみる。           
 このほか、明和四(一七六七)年の浄徳寺をめぐる争論、文化十二(一八一五)年の時郷惣社出入、天保から嘉永にかけての時山村道場一件、おなじく山上村道場一件などがある。           
 寺社その他 この項目には以上の諸項目には分類できない寺社関係文書を集めた。総べて三十五点である。           
 救済 本文書における救済関係文書をここに分類した。また、救済の対象となるべき困窮人の調査に関する文書もここに含めてある。総点数四百三十三点を、義倉関係文書とそれ以外とに分けて収録した。           
 『義倉御囲大小麦御貸付帳』は返済された大麦小麦の量とその利息が若干の注記とともに記され、六月段階での有高を勘定し、さらに新規の貸与を後筆で書き込んだものである。一割の利率で貸与したので、文化六(一八〇九)年に大麦小麦それぞれ十六石余だったものが、十年後の文政二(一八一九)年には大麦四十一石余、小麦二十四石余にふくれあがっていた。このうち小麦は売払ってしまい、義倉の貯えは大麦だけになった。したがって、同三年以降の『義倉御囲大麦御貸付帳』はそれまでの大麦と小麦の貸付帳を引き継いだものである。その後、文政八(一八二五)年以降は、朱の押印、役人の署名捺印など記載上で変化がみられるが、内容上は標題とおなじように差異はない。結局、同十年には義倉の大麦は七十石余と四倍以上になっている。しばらくの空白ののち、天保四(一八三三)年付『義倉御囲大麦御貸付覚帳』(一五)は、二百四十二俵(五斗入)あまりの正有高から、文久三(一八六三)年の二十俵余で終るまで、大麦の出納が記録されている。その記録のうち、天保七年と同八年の貸与は『義倉囲武儀元方并貸付帳』(一六)が併行して仕立てられ、両者は割印による照合がなされている。また、天保八(一八三七)年には二百七十一俵を百九十九両で時多良両郷に払下げた。この代金を調べたのが『義倉麦御払代金調帳』(一七)であり、それを取立てたときの帳簿が『義倉大麦御払代金取立帳』(一八)である。百九十九両余のうち百両で米を買い、その払下げと残金の貸与が『義倉米金貸付表』(一九)『義倉御囲大麦仕訳帳大下』(二一)『義倉金御勘定帳』(二二、二三)で勘定してある。           
 義倉関係の史料はむしろ少数で、この項目の大部分は救済願書や個々の救済に際して作成された文書類である。           
 天保八(一八三七)年、高木家は窮民救済のため蔵米千石の払下げを尾張藩に出願した。しかし藩の許可を得ることができず、そのかわりに「尾張表御家門様方」五家から二百石を買い入れた。この米を、買い入れよりも安く、領民一人一日につき大人五合子供三合の割で、一日分ずつ売り渡し、救済とした。           
 慶応三(一八六七)年には、信功院(経貞)の七回忌ということで、高木三家領内等千余軒に玄米一升ずつ、都合十石余を施した。その際の引換えの書付が多数残っている。「一同に慎んで有難く御門前拝したてまつり、勇ましく帰り候」とは、高木家の役人の記したところである。           
 顕賞 この項目には、孝行者および長寿者の調査に関する史料二十二点を分類した。           
 通行 本項目は四つにグループ分けされている。第一は関所通行に関する文書である。柳ケ瀬、荒井、木曾福島の各関所の手形の下書がある。第二は、高木家の当主および家臣が村々宿々を通行する際、必要な人足、馬匹をあらかじめ用意するように指示した『先触』である。本文書における『先触』の大部分は通行の目的によって分類してあるが、ここに収めたものはそれが不明なもののみである。第三は、参勤交代で高木家が定宿とした本陣、脇本陣に関する文書である。三島、御油、洗馬の本陣からの扶助願書もここに分類した。           
 第四は幕末における領内通行取締りに関する文書である。元治元(一八六四)年、武田耕雲斎の西進を機に、高木三家では勝地峠に番所を設置した。慶応三(一八六七)年には、美濃郡代が、間道取締りのために高木家領にも手付、手代を派遣して見廻らせる旨、通知してきた。これをうけて高木家では、関ヶ原以後の領知の由緒を前置きにして、美濃郡代が「邂逅見廻り等差出し候ても実地の取締りには相成らざるよう存じたてまつり候」と意見を述べ、領内の間道取締りは従来どおり自分支配にすべきことを幕府に伺い出た。幕府の指示は双方で取締りにあたれというものであった。           
 そのほか、往還道に関する文書などもこの項目に分類した。総点数百三十八点である。           
 運輸 本項目には物資の輸送に関する文書を分類した。浦手形など数点の海上および河川輸送に関するもの以外は、陸路の運送問屋との文書が大部分である。全部で十六点収められている。           
 通信 ここに分類されたものは、書状の送付について飛脚所から到来した文書がほとんどで、総点数五十五点である。           
 家臣分限帳 この項目には、家中の役名、人名、給米、給金、扶持米を書きあげ、家臣の分限を知りうる史料を十四点集めてある。            
 天保五(一八三四)年の『御家中御宛行覚』(一あ)によれば、「土分」(家老、用人、側用人、江戸留守居、給人、目付、近習、医師、側中小性、小性、徒士)二十一人にたいして、給米五十五石九斗、給金二十二両、扶持米六十石三斗をあてがい、「土外」(足軽、草履取、中間、門番)八人にたいして、給金六両二分、扶持米二十五石五斗を与えている。この年は「御省略中」ということで多くの者に暇が出されているから、これが家臣団のすべてではないし、扶持米その他も節約されている。以上のほかに、百姓から取立てられた徒士格、足軽格、武先が含まれる。           
 扶持 家臣への扶持に関する文書二百八十四点がここに分類されている。最初に、給米と扶持米(「御給扶持」)を家臣ごとに書きあげてある史料をひとまとめとした。その多くは支給にあたっての準備書類である。つぎに、支給に際しての史料をまとめた。大部分が無年号であるが、「御借上」など、支給の実態を知ることができる。最後に、明治維新以降の扶持関係文書を集めた。明治十四(一八八一)年まで、主従関係が解消されていく過程における文書が残されている。           
 士帳 この項目には家臣の名鑑に類する史料を一括し、「士帳」という名称で代表させた。総点数六十一点である。『士帳』は正式の名称を「御家中士帳并御役付」といい、氏名、役職、その履歴、花押(省略されているばあいもある)、年令が記載されている。天明五(一七八五)年付から慶応二(一八六六)年付ものまでが保存されており、十八世紀以降の家臣団構成及び個人の職歴などを総合的に知ることができる史料である。           
 そのほかこの項目には、足軽、中間、足軽格など「士外」の者の幕末における席順を示した史料、明治初年の『士籍書』などが含まれている。明治三(一八七〇)年の『高木広家来士籍書』は笠松県役所へ提出したものの控えで、それぞれの家臣の家族、家督を継いだ年、宗旨、檀那寺、居住地などについて詳細に書きあげたものである。 取立・出仕 この項目には、家臣の新規召抱え、あるいは補任にかかわる文書四十一点を収めた。           
 誓詞 この項目には、あらたに家臣として召抱えられたときや、主君の代替りなどに提出された誓約書が三百三十三点分類されている。誓約をする者が『士分』か『士外』かによって、様式のうえで二つに区分される。           
 前者は、「起請文前書之事」としてそれぞれの役職上の誓約事項を箇条書きにした半紙と、神文を記し、署名血判をした牛王室印を継ぎあわせたものを家老に提出した。これに対して後者は、「一札」「御請書」の様式で、誓約事項を箇条書きにし、署名捺印したものを台所方役人に提出した。           
 勤向 本項目には、職務内容、服務規程、勤士の実態を示す史料を分類した、総点数百八十五点である。このうち、文政八(一八二五)年付『御家中江被仰渡其外御定被仰出候書付控』(八二)は、役名役順の確定、職務内容の整理、家臣居宅の陣屋周辺への移転など、動向の万端にわたり、改変、引き締めを計ったときの記録である。とくに、居宅居転についての説明にはその意図が明確である。すなわち、「年来、村々の内には住居罷り在り来たり候えども、村方へ入交り罷り在り候ては領分中の制止の筋等不行届けの儀も有り、ならびに子ども成り立ちかた不行作に押し移り候段相聞え、都て締りむき宜しからず候趣に相見え候。且つ差懸り候急用等有り候節も不摸通り差支え候哉に存じ候」とある。           
 退身 家臣の退役、退身に関する文書四十四点を分類した。           
 相続 この項目には家臣の家督相続について高木家へ提出された文書、および家、系譜を示す文書を集めた。隠居願書、跡目養子願書、惣領願書が中心で、総点数九十二点である。           
 縁組 本項目には、縁組願書を中心として、総点数百四十点が分類されている。           
 屋敷 家臣の屋敷に関する文書二十六点をここに分類した。文政八(一八二五)年の『御家中一統江拝領屋敷江家作ニ付御手当金并拝借金相渡返納方覚』(一)は、この年に陣屋周辺へ移転させられた家臣に手渡した金額、移転の期日、返納金の年ごとの記入を内容としている。           
 家臣その他 以上の各項目に分類できない家臣関係文書をここに収めた。総点数百九十九点である。           
 沙汰書 ここに分類した史料は、「御沙汰書」「殿中御沙汰書」あるいは「聴書帳」などと名付けられている。江戸城中における行事、拝謁、恩賞、役人任免、家督、隠居、婚姻などの沙汰が日々記し次がれている。これにより城中の動静を詳しく知ることができ、高木家がこれを集めた目的もその辺にあったのであろう。欠如は少なからずあるが、天明元(一七八一)年から慶応三(一八六七)年のものまで六百点が残っている。なお、欠如部分の一部は名古屋市蓬左文庫、徳川林政史研究所の所蔵になる東高木家文書で補うことができる。           
 留守居方御用状 高木家の在所役人と江戸留守居方役人との往復書状を本項目に分類した。幕府からの指示および幕府への働きかけはすべて留守居方を経るので、その役人の作成する書状およびそこへの書状は、幕府と高木家とのあいだの「御用」に関するものである。内容は多岐にわたり、各項目への分類は不可能であるため、ここに一括した。総点数百六点である。           
 幕府 本項目には、幕府主導による諸事業、および幕府の崩壊に帰結する幕末の政情に、高木家がなんらかのかたちで参与することによって成立する文書が分類されている。総点数七百二十四点である。           
 おもな内容は、延宝六(一六七八)年白山社頭造営修覆、元禄十三(一七〇〇)年国絵図作成、享保二(一七一七)年、延享三(一七四六)年、宝暦十一(一七六一)年、天明八(一七八八)年、天保九(一八三八)年の幕府巡見使、寛保三(一七四三)年薬草使用、延宝九(一六八一)年、正徳三(一七一三)年、延享二(一七四五)年、宝暦十(一七六〇)年の将軍代替り誓詞、文化十一(一八一四)年測量御用、それに異国船渡来より戊辰戦争にいたる幕末の政情に関する文書である。ことに幕末の政情に関するものは、巷間に流布したものまでがひろく渉猟されている。           
 参府 交代寄合は隔年の参勤を義務づけられていたが、美濃衆高木三家のばあい、当初はどのようであったかは不明である。明確であるのは、寛文八(一八六八)年に、二家と一家で隔年に参勤することを命ぜられていることである。ところが、三人のうち一人が幼少で家督を継いだばあい、彼が十五、六才になって「初而御目見」するまではほかの二人が交互に参勤した。このような例は享保年間と天明年間にみられる。そして「初而御目見」が許されると、その中に順番が当たっている一人に伴われて、二人で参勤することになる。以後はその二人とほかの一人が交互に参勤を繰りかえしていく。           
 しかし、つぎの場合は免除された。すなわち、高木家三家が木曾三川普請に見廻りを勤めた年とその翌年である。そのうえ、参勤を免除された年限中に、二度、三度と見廻りを命ぜられたときは、その回数だけ繰りこして免除される。また、家督相続の礼に参府したときは、その翌年は免除された。さらに病気のばあいも免除される。           
 文久二(一八六二)年に、幕府は大名の参勤交代制度を緩和し、三ヵ年在国邑して百日在府するものとした。高木家ではこれを自分たちにも適用するように要求し、結局、毎年一家ずつ参勤することが許された。それぞれの家にしてみれば、隔年が二年おきに緩和されたのである。           
 以上のような諸要因の組みあわせによって、参府するかいなかが決定する。ひとたび参府となれば、道中の供揃の調書、村々宿々への『先触』、宿ごとの人馬賃銭支払帳、宿泊費受取書、川越人足賃銭受取書、江戸における挨拶まわりの下調べ書、贈物、献上物の目録「御目見」手順の下調べ書等々、さまざまな文書が残されることになる。本項目総点数は千五百点である。           
 初目見 この項目には高木家の子弟が将軍にはじめて拝謁したときの文書三十六点を分類した。享保二十一(一七三六)年の重一郎(篤貞)、寛政二(一七九〇)年の千之助(東高木貞直)、同五(一七九三)年の長橘(貞蔵嫡子・夭逝)、享和三(一八〇三)年の大次郎(北高木貞興)、文化六(一八〇九)年の金二郎(経貞)、嘉永七(一八五四)としの鉄三郎(貞広)、文久元(一八六一)年の鏻寿丸(北高木監物)の文書がある。           
 仮養子 仮養子は正式な養子ではなく、「御殿」の期間にかぎって幕府の届出ておくものであった。たとえば元文二(一七三七)年の高木重一郎之願書(一い)に、「私儀、来年十七才に罷り成り候。男子御座無く候につき、在所逗留中参府仕り候迄のうち、若し相果て申し候えば、従弟亀之丞を養子に願いたてまつり候」とあるように、一時的かつ形式的なものであり、むしろ「御暇」中の手続きの一つであったところから「勤役」の一小項目とした。本項目には分類された史料は五十七点である。           
 軍役 高木家の軍役が、交代宿舎の家柄にちなみ、ほかの旗本にくらべて大きかったことはすでに述べた(巻一解題十一頁)。年代不明の〔陣立図〕(二こ)には「郷題」「郷鉄砲」「郷中間竹鑓」が配置され、家臣団をうわまわる数の陣容を知ることができる。また、嘉永三(一八五〇)年『非常之節御供立』(八)は出陣時の行列の組みかたと武器、人名を調べたものであるが、ここでは足軽格や徒士格の百姓が重要な戦力とされていることがわかる。この項目には分類された文書は四十四点である。           
 軍備 本項目には、貞享四、五(一六八七、八)年の幕府による鉄砲調査の一環としての文書をはじめ、多くの鉄砲改め関係文書が分類されている。ちなみに、貞享度の調査によると、領内に二十五挺の鉄砲があり、このうち二挺の猟師鉄砲と各村一挺ずつの「玉込め申さざるおどし鉄炮」を除き、のこりを取りあげて代官預かりとした           
 このほか鉄砲改め関係の文書は、元禄十六(一七〇三)年、宝永五(一七〇八)年、 正徳三(一七一三)年、寛保三(一七四三)年、寛延二(一七四九)年、天明四(一七八四)年、文政五(一八二二)年のものが残っている。このうちまとまって残されているのは、天明四年と文政五年ものである。           
 高木家では幕末に西洋流砲術を導入した。そのために、慶応元(一八六五)年に鉄砲二十四挺を百二十四両で買いあげ、明治二(一八六九)年にはライフル、小銃が三十挺もあったことが記録されている。これにともなう支出は多大なものであり、『武器入用金出入覚帳』(一一い)でみると、文久二(一八六二)年から慶応二(一八六六)年までに、実に八百二十二両あまりが出費されている。           
 軍備関係文書は総点数四百十九点である。           
 武術 この項目には、高木氏ならびに家中の侍の武術鍛錬に関する史料五百一点を分類した。山鹿流兵学、大坪流馬術、弓術、小野流一刀流剣術、種田流鎗術、先意流薙刀などがその内容で、集義館において稽古した。幕末の西洋流訓練には足軽や徒士格の百姓も動員されていた。

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『高木家文書目録』巻三



 茲に高木家文書目録巻三を刊行できたことは、私たち関係者にとっては、大変喜ばしいところである。本巻は、高木家文書中の白眉ともいうべき治水関係の目録を収めている。高木家は、旗本ではあるが、他の旗本がほとんど江戸に在住したのと異なり、木曽・長良・揖斐(伊尾)の三大河川流域の治水監督を任務とすることによって、常時知行地に居住することを許され、江戸には定期的に参勤し、交代寄合として大名なみの格式を有していた。           
 わが国のように、米作農業に依存する場合、河川の水の重要性はいうをまたない。したがって、治水工事の実施、河川の維持・管理、水をめぐる紛争の裁定が、重要な政治事項となる。木曽三川において、とくに治水が重要であったのは、この三川が下流で合流していたために、連年洪水をひきおこしたことによる。すなわち、この三川はそれぞれ河床の高さが異なり、揖斐川がもっとも低く、長良川・木曽川の順で高くなる。このため平水時でも河床の高い川から低い川へと水が流れこみ、降雨時ともなると、長良川・揖斐川は逆流して洪水となった。しかも、日本の天気は西から東へと移動するため、揖斐川が最初に出水し、もっとも流域が長く水量の多い木曽川は最後に出水した。そこで長良川・揖斐川は減水がおくれ被害を拡大することとなった。           
 他方、歴史的には、近世初頭以来のデルタ地帯の開発によって、各河川の河道は固定し、遊水地がせばめられて、川の流れに悪い影響をもたらした。また人の居住地域が下流にのびたため、これまで問題にされなかった地域での洪水がとりあげられることとなった。さらに木曽山系の各河川上流での木材の濫伐は、土砂の流出を急激なものとし、河床を上昇させていった。こうした自然条件と人為条件が重なって、洪水が頻発していったのである。           
 洪水への対策としては、当初河川整備事業によって、流れを途中でとどまらせることなく、早くに海に流すことを試みたが、ついで根本的に三川分流工事を実施することとなった。そのうちもっとも著名なものが、宝暦治水である。本文書の治水関係資料約一万二千点のうち、実に二千数十点がこの治水に関係したものである。宝暦治水は、宝暦四(一七五四)年から翌五年にかけて、幕府が薩摩藩に命じて、分流工事を実施させたもので、総工費約四十万両、仕事に従事した人数が一日に少なくとも千八百人以上におよんだ。工費の四十万両は、当時の薩摩藩の全収入の二年分をこえるものであり、幕府はそれにたいして僅か一万両足らずを支出するにとどまった。           
 工事自体が、技術的に巨額の費用を要する難事業であっただけでなく、幕府目付役、高木家、薩摩藩、地元民の複雑な関係から生ずる軋轢も絶えなかった、と思われる。この工事を通じての諸役人等の犠牲者は八十七名であり、このうち病死者三十三名を除く五十四名が自刃という惨状を呈している。死亡者は高木家の家臣内藤十五衛門と幕府方小人目付竹中伝六を除くと、総奉行たる薩摩藩家老平田靱負をはじめとして、すべて薩摩藩であった。こうした犠牲の上に遂行された宝暦治水は、その工事規模、成果等において、わが国の治水史上画期的なものである。その他の治水をもふくめて、本書に収められた膨大な史料は、わが国の治水を論ずる場合に不可欠の貴重な財産である。全体の内容については、笹本助手の手になる詳細な解題を参照されたい。           
 高木家文書については、昭和四十六年四月から、本学の事業として、高木家文書調査室を設置し、八ヵ年計画の調査・整理事業が行われ、五四年三月まで約五万店点の整理が完了した。高木家文書調査室は、その段階で、四月から高木家文書目録刊行調査室と名称を変え、調査室員は西田真樹助手から笹本正治助手に交替した。この調査室の全体の運営に当てられた運営委員会の委員はもとより、労苦の多い作業を直接担当してきた笹本室員および補助員の方々に深甚の謝意を表しておきたい。           
 なお、前巻に引続いて刊行費を支出された文部省学術国際局情報図書館課の御好意に心から感謝するものである。           
 昭和五十五年三月           
  名古屋大学附属図書館長           
        横越 英一  


解題  


 本巻を構成する大項目「治水」には、高木家と木曽三川流域の治水とのかかわりを示す史料、総数一万二千四百六十五点を収録した。           
 この大項目は四つの中項目に分類されている。中項目「役儀」には、高木家の幕府に対する勤役の一つである治水に関係する史料八十八点を、「用水論所見分」には、幕府の評定所に持ち込まれた争論の論所に高木家が検使として派遣された際の史料百七十一点を、「普請見廻」には、高木家が木曽三川流域の治水工事を見廻った際の文書、および水流維持のため毎年定期的に行なった川通り巡見に関する文書一万二千百十八点を収め、以上の項目にあてはまらないもの八十八点を「その他」としてまとめた。           
 右に従って分類された史料の年代別の点数を示したのが別表である。表に見られるように高木家の治水関係文書の年代は寛永年中を上限とし、寛文年中から点数が増大し、特に宝永・宝暦・文化・天保等に多くの史料が残り、明治を下限としている。木曽三川の治水史上注目される時期には、史料の残存点数も多くなっている。なお全体の約二十%にあたる二千二百七十四点が年末詳である。           
 これらの治水関係史料は、一つ一つの事件について、百姓側の願書や訴状等による問題提起、それに対する幕府側の対応、その両者の間に位置する高木家の動向というように、その経緯を重層的にあますところなく伝えている。こうした史料の性格が、点数の多さと内容の豊富さとに加えて、高木家文書の一大特徴をなしているのである。以下各項目ごとにその概略を述べていくことにする。           
 役儀 この項に分類された史料をさらに大別すると、治水に関する高木家の経歴をまとめたもの(家譜の形で年代記ふうにまとめたもの十二点、治水工事や用水論所見分等の見廻りを命じられた際の書類を書き留めたもの十二点)。役向きについての願書(木曽三川治水のための建策や、高木家の堤奉行その他への就任願書五十二点)。役儀を遂行するにあたっての実務参考資料(仕事の内容等の覚書五点、出役時の前例等の覚書五点)。以上三つのいずれにも属さないもの(三点)の四つに分けることができる。これらはいずれも密接な関係を持つものであり、役向きの願書に添えて家の経歴が書きあげられたり、仕事を行なうに際して過去の書類留が参照されたものであろう。           
 第一のグループである高木家の治水に関係した経歴を書きあげたものは、『先祖代々川通持場其外御用勤書』と題されるものが多く、これによって高木家の関係した治水の概略を知ることができる。詳細は次項以下の説明に譲るが、これによると治水に関係しない役儀は一六七〇年代までで終わっている。その内容は慶長十六(一六一一)年と寛永十一(一六三四)年の将軍上洛供奉、年代不明の台徳院上洛の際の熱田・桑名での舟割御用、寛永年中の二条城・駿府城の普請、延宝六(一六七八)年の加賀白山社頭造営の六件である。一方論所見分は寛文から宝永年中に集中し、普請見廻りは万治年中より、特に元禄末年以降連続して行なわれている。           
 次に第二グループである役向き願書の主要なものについて触れる。高木三家の川通り巡見は宝永二(一七〇五)年から開始された。これ以降三家は二家ずつ年番で、美濃国中の川筋、伊勢桑名川通り、尾張熱田川通りに家来を巡回させ、宝永の取払い普請を基準にして水行の障害物の除去を命じ、新規の普請は笠松の堤方役人と立会いで可否を判定することになった。明和三(一七六六)年に至って、高木家の持場は縮小された。この結果高木家は、木曽川は笠松村から加路戸川通り海口まで、長良川は河渡村から成戸川・木曽川まで、伊尾川は西結村から桑名川通り海口まで美濃郡代と立会で管轄することになり、これ以外は管轄からはずされた(二)。これから約五〇年を経た文化十(一八一三)年、高木家は持場の復活を勘定奉行に要求した(六・お)。しかしこの願いは聞き届けられなかった。そこで天保二(一八三一)年には、尾州上萱津村妙勝寺を介して、川通り惣奉行に就任したい旨の願書を老中・勘定奉行に提出しようとした(一三・あ~し)が、これも沙汰止みとなった。役儀の史料が宝永・明和・文化・天保に多く残っているのは、右のような高木家の役向きの変化と、それに対する高木家の対応によるものである。           
 第三のグループは任務遂行のための参考書類である。たとえば安永五(一七七六)年四月の『川通御用勤筋手控』(三)には、宝暦・明和年中の普請を例にとりながら、主として幕府役人への伺候の方法、供廻り等について記されている。また天保十一(一八四〇)年八月の『川通御普請仕立方伺等之儀其外心得方覚書写』(一四)は、美濃独特の国役普請の方法である遠所役・水下役の人足の遣し方、木曽三川治水の基本となるべき「濃州国法」の抜粋、堤勾配の計算法、美濃河川の里数、宝暦八(一七五八)年までの歴代美濃郡代の書あげなどよりなっている。さらに慶応二(一八六六)年二月の『川通御用御廻中取扱覚』(二〇)には、高木家の当主が川通り御用で巡回するに際して、尾張藩役人・幕府役人・笠松郡代・堤方役人・高須・大垣・切通・加納などの役人にいかに挨拶するか、その作法等が記されている。           
 第四のグループその他には、日記の抜書や扶持に関係する史料が入っている。           
 用水論所見分 この項に分類された史料百七十一点は、寛永八(一六三一)年(ただしこれは写しである)から、享保二(一七一七)年までの約九十年間のもので、特に寛文四(一六六四)年から、貞享四(一六六七)年の約二十年間に八十%が集中している。これらの文書は、高木家が用水論を中心とした争論の見分にどのようにかかわったかを示している。以下具体的に年を追って用水論について触れ、説明していくことにする。           
 有名な真桑・莚田の用水論争は中世末からあったことが知られている。高木家の御用勤書によれば、この争論に対し寛永元(一六二四)年に、高木家は「水分莚田方江十八時真桑方江十弐時之番水」御用に出たという。また『岐阜県史』史料編近世五によれば、寛永十四(一六三七)年に争論の検使役になっており、さらに寛永十八(一六四一)年にも検使役として山口一の井より二十間余り下流に新溝を掘り、渇水の時は莚田六分・真桑四分の配分を決めている。高木家文書中では真桑・莚田の井水論史料として、寛文四(一六六四)年以降のものが残っている。その中でまず注目されるのは、寛文四年十月二十五日の評定所における双方対決の記録(二)である。これには双方の百姓・幕府役人の発言が議事録風に記録され、対決の模様を具体的に示している。それによれば、真桑方提訴の理由は、莚田方が用水路を深くしたため、真桑方の番水口に水が流入しなくなったので、上流の大堰のわかれめで分水したいというものであった。これに対し検使衆は、莚田井口が四・五尺も深くなっており、井口が十五間であったので二十五間に広げられているので、ここから真桑への番水は不可能である。しかし真桑番水口を深くすると南原の井堰にさしつかえると報告した。この後評定所でやりとりが行なわれ、高木三家が現地に行って、井水が田地にかかる程度に双方に高下なく分木を伏せるようにとの老中奉書(一)が、十二月九日付で出された。これにもとづいて高木家では翌年現地に出張し、分木の伏せ方を指示して双方の井口の幅を固定するようにと、大垣藩および加納藩の各奉行と両井頭に申し渡した(一七)。その上で高木三家連署で三奉行への復命書(五)が三月十六日に書かれている。           
 寛文五(一六六五)年正月十八日付で、高木家に対して市橋村と大(青)墓村との山論、および楡俣村と発(堀)津村との境論の論所見分をするようにとの老中奉書(三)が出された。翌日付の三奉行の連署状(四)には、双方の百姓の申し分を聞き届け、論地の絵図を仕立て、証拠文書等があれば調べた上で存寄を覚書にして出すようにと指示してあった。そこで高木三家は見分を行ない、三月十六日付で覚書(六)を作成し提出した。これには市橋村と青墓村の山論についてだけ記されている。堀津村と楡俣村との境論については五月二十二日に裁許が申し渡され、その絵図裏書の写し(七)が残っている。一方市橋村と青墓村の山論は六月十二日に裁許状(八)が出された。           
 寛文十一(一六七一)年には大野郡房島村と池田郡小島七ヵ村(上野・野中・白樫・溝尻・東野・大門・堀)との間に野論があり、双方とも非儀の訴訟をしない旨の証文(九)が評定所に出されている。 寛文十二(一六七二)年六月、高木三家と美濃代官杉田九郎兵衛は、大野郡公郷村と安八郡白鳥村との堤争論の論所を見分し、幕府に報告書(一三)を提出した。この争論は公郷村が乱杭を打ち込んだため、白鳥方への水当りが強くなったこと、簗の設置、越境して設置された猿尾、川原の柳の伐採をめぐって争われた。これをきっかけにして、この年の閏六月六日に美濃国中の川筋の内々見分が命ぜられた(一四)。この命令は川筋支配体系の完備以前において、個別的になされる川普請と、それによってひきおこされるであろう争論を処理するための施策として注目される。しかしこの措置は簡単に達成することはできず、結局延期されることになった(一五)。なおこの争論に付随して、公郷村が横井村と加納村の入会の川原をみずからの村城として主張したとして、公郷村を両村で訴えている(一六)。           
 延宝八(一六八〇)年八月、真桑井組が自分達の番水所の井桁篭を修覆したところ、南原井組の曽井村、長屋村、石神村、山口村はこれを「新法」であるとして、破却したことを幕府に訴えた(一九)。そこで翌閏八月二十九日付で三奉行、同じく晦日付で老中が、この争論は寛文五(一六六五)年の裁許を破ったものかあるいは新しい問題の発生なのかを、論所を見分して報告するようにと高木家に指示してきた(二一・二二)。見分の後高木家は十月四日付で報告書の下書(二四)を作成した。報告書によれば井桁篭は寛文五年の裁許の際、南原井堰の障害にならないことを見込んで設計されたもので、真桑井組の修覆は新法ではないこと、曽井組も先年通り井普請を許可されれば訴えるつもりはないと述べていること、等が記されている。ところがこの出入りに関係して、更地村、上秋村など十ヵ村も用水不足を江戸に訴え出た。このため幕府は三奉行連署で、雪解けを待って再度見分をするようにと高木三家に指示してきた。これに対する高木三家の報告書(二六)は三月付で提出された。この中で高木家は用水不足には見えないから、以前のままでよいと述べている。裁許は翌天和二(一六八二)年五月二十五日に出された。この裁許(三二)によって、曽井村など五ヵ村は破壊した井桁石篭を修覆すること、印枕、印石を設置すること、更地村など十ヵ村の訴訟は無用であることが申し渡された。           
 天和三(一六八三)年には方県郡上城田寺村、下城田寺村、石谷村、洞村、村山村の五ヵ村と交人村との堤出入があった。訴訟は交人村が新堤を築いたので水損が激しくなったとして五ヵ村側が提訴したことに始まった。これに対して交人村は、五ヵ村側こそ新堤を築いていると反論した。そこで幕府は同年七月二十五日に三奉行達書(三七)をもって高木三家に論所見分を命じた。三家はこれをうけて論所を見分し、八月二十三日付の書状(四二)によれば、意見書を幕府へ送付している。裁許は十月二十五日になされ、評定所はどちらでも新堤でないと判断し、交人村に対しては、堤の高さを三尺三寸に均すこと、また五ヵ村側へは現状を固定することを指示した。同時に出水の際流れの妨げにならないように、両岸の松や柳、堤防上の藪を伐採することも命じた。            
 貞享二(一六八六)年には大野郡寺内村は、古川村が我儘に水を取っているとして、高木家へ訴え出た(五一・あ)。また翌年にはさらに評定所に訴え出た(五一・う)。高木三家はこの件でも見分を命ぜられ(五一・お)、翌年二月七日付で意見書を提出した(五一・せ)。これに対し幕府は三月五日付の三奉行連署状(五一・つ)で重ねて吟味するように指示した。そこで三家は三月二十一付で再度意見書を出し、結局五月十四日に至って従来通りにするようにとの裁許がなされた(五一・ぬ)。           
 同じく貞享二年十月に大野郡福島村から、同郡居倉村が村境をこえて自村の西河原を耕作しているとの訴えが出された(八一)。この訴えに居倉村は翌年正月反論した(五二・あ)。幕府は高木家に対し見分を命じ、三家は七月十六日付で報告書(五二・う)を提出した。評定所ではこれを参照し、貞享三年九月六日に裁訴が行なわれ(五二・お)、福島村の勝訴となった。           
 貞享三(一六八六)年、青木右衛門知行所大野郡温井村が幕領の同郡浅木村を訴え出た(五三・え)。訴えによれば温井村の用水は山口川の浅木村他三ヵ村の河原から井料米を支払って取水していたが、川は洪水のたびにごとに瀬をかえ、井堰は川の変化に応じて位置を変えて築きなおすのを慣例にしていた。ところが浅木村は井堰が川除の障害になるとして、井堰を一定の場所に固定するか、さもなくば井料米を増すようにと申し出た。温井村ではこれを笠松代官所に訴え出たが、幕領であるからとして、改めて幕府へ三月二十二日付の訴状を提出した。そこで評定所は四月六日に評定所で対決するようにと村々を呼び出した。翌月浅木村が返答書(五三・お)を提出した。この中で浅木村は、温井村の訴えは川筋で勝手に溝を掘って水をとる新法の訴訟であって、温井村のいうような慣習はなく、また井料米も寛永十五(一六三八)年の規定のままだと反論した。高木家の治水関係の文書中で最も古い寛永八(一六三一)年の証文写し(五三・あ)、同じく十六(一六三九)年(五三・い)慶安三(一六五〇)年(五三・う)の証文の写しは、この対決の中で提出されたものであろう。結局この時には、温井村は数年来の堀筋を使用し、井堰は若干上流に移動するようにとの裁許が下った。しかしまたしても洪水がおき川瀬に変化があり、温井村は水がとれなくなったので、浅木村に井堰の移動を申し入れたが容れられず、翌年四月晦日再度訴訟に及んだ(五三・か)。そこでまた応答が行なわれ(五三・く、け)、十月七日に高木三家に論所見分が命ぜられた(五六、八八)。三家は十一月十二日付で意見書(五三・ち)を提出し、これをもとに評定所は十二月十四日付で温井村の勝訴を旨とする裁許を申し渡した(五三・つ)。           
 宝永二(一七〇五)年から翌年にかけて、高屋村、有里村・数屋村と上下真桑村との用水争論がもちあがった(六二)。この時は高木三家は検使の任を負っていない。裁許は翌三年四月二十五日に出された。これに基づいて美濃郡代辻六郎左衛門は五月三日の書状で、評定所の指示によって論所に分水の定土木を設置するので、川通り見廻り年番の家から家来を一人差出し、自分の手代と立会って欲しいとの旨を伝えている。この争論にあたっては、高木三家は検使役も勤めず、裁許後も番水の定土木設置に立会ったにすぎず、これまでの争論への介入状況からすると、立場に大きな変化が見られる。           
 右の事件以後は、高木三家が幕府に持ちこまれた水論に関与したことを示す史料がない。高木家の諸々の御用勤書にも、論所見分の事例は元禄年中以降は載っていない。このことから以後高木三家がこうした役を勤めなかったと結論しても誤りはないだろう。これに対して前記のように川通り巡見の任務が宝永二(一七〇五)年から恒常化している。宝永二年の出入りにおいて、裁許後の定土木設置に立会ったのもこの役割の上であったのだろう。この時期に高木三家の治水に関する役割が、大きく変化したのである。           
 普請見廻 この項は内容的に大きく二つに分かれる。一つは時々行なわれた普請に関係するもので、他の一つは宝永二(一七〇五)年以降行われるようになった川通り巡見に関連するものである。史料は元禄年中以降になると増加し、明治に至るまで連綿として続いている。この項は史料点数およびその内容において本巻の中心をなすものである。まず前者から年を追って概観していくことにする。           
 この項のうちで最も古い史料は寛永十八(一六四一)年、美濃国役普請に際して高木家が出した扶持米の受取書(一・あ)である。この時高木三家は堤普請奉行を勤めた。           
 御用勤書によれば、正保年中に美濃国役普請が行なわれ、この際高木権右衛門と次郎右衛門が美濃国中堤普請奉行が行なわれ、この際高木権右衛門と次郎右衛門が美濃国中堤普請奉行を命ぜられたという。これに対応する史料(四九五五)が残っている。           
 万治二(一九五九)年には、坪内惣兵衛知行所前渡村の木曽川堤修覆が行なわれた。この普請に際して、高木権右衛門と次郎右衛門が四月二十九日付の老中奉書(三)で修覆奉行を命ぜられた。           
 寛文十二(一六七二)年にふたたび坪内惣兵衛知行所内の木曽川堤の普請があり、十月二十八日付で高木三家は杉田九郎兵衛とともに普請奉行に任ぜられた(四三五八)。これより先の前年十二月、国役普請人足について四人は勘定所へ伺書を提出し、幕府と折衝をくりかえした(一)。           
 翌年夏には木曽川に洪水があり、坪内領内では多くの堤が破損した。そこでこの修覆普請のために九月十三日付の老中奉書(七)で、高木新兵衛・藤兵衛と杉田九郎兵衛が奉行を命ぜられた。           
 延宝二(一六七四)年にも国役普請があり、またしても前年奉行を勤めた三人が普請奉行に任命された(九)。           
 元禄十二(一六九九)年から三年間続いて木曽川流域は洪水に見まわれた。この原因は木曽・伊尾両川下流の百姓が、勝手に両岸より新規の新田を仕出し、川幅を狭めたので、出水のたびごとに流水が停滞したためであった。そこで高須・本阿弥・福束輪中の諸村は元禄十五年五月これを出訴した。評定所は相手方の反論も聞いた上で十二月に石井伴助と小俣文大夫に論所見分を命じた(一五)。結局幕府は彼等の上申書に基づいて普請をすることを決定し、元禄十六年三月晦日に高木五郎左衛門と代官南条金左衛門に美濃の河川および伊勢桑名川の水流の障害物を取払う普請の奉行を命じた(一七)。これをうけて五郎左衛門は誓詞(一九)を提出し、早速桑名通りの取払いにかかった。           
 一方当時村々の堤や川除は洪水で大破し、村の力では修覆しえないでいた。そこで幕府は元禄十六年六月笠松郡代辻六郎左衛門、高木次郎兵衛、同富次郎を普請奉行として国普普請をすることにした。そして高木五郎左衛門にも桑名川通りの取払いが済み次第、美濃国役堤普請の奉行を勤めるようにと命じた(三三)。           
 元禄十五年の桑名川通りの取払いのための実地見分と同時に、郡代方役人と高木家家来等は濃州川々の水行障害物除去のため、立会って美濃の諸河川を調査した。この時の取払い対象は、川敷内の樹木、葭の類から既設の猿尾、篭出し、さらには堤、場合によっては民家にまで及んでいた。宝永元(一七〇四)年十二月付の『濃州川通村々取払より示杭手帳』(一一九・一二〇)は、このしめくくりをなすもので、障害物を取払うことを村ごとに誓約させている。こうした準備の上で同年十二月か翌二年の三月にかけて、一般に宝永の取払い普請といわれる大規模な普請が実施された。           
 元禄十六年から宝永二年に至る一連の取払い普請は、デルタ地帯における新田開発や、河川上流の山林濫伐等によって広域にわたる洪水が瀕発し、幕府の力を背景とする一国規模の治水工事が必要になったことを示すものである。当時の技術では洪水に対処するためには、流水をいち早く海に流下させることが最良策と考えられ、取払いが実施されたものであろう。このようにこれらの普請は幕府の木曽三川での治水政策の一大転換を示すものであり、宝永二年以降高木三家が年番で川通りを巡見することもここに起点があった。           
 宝永三(一七〇六)年六月・八月と美濃は度重なる雷雨にみまわれ、洪水によって多くの村々に被害があった。地元領主等の願いによって幕府は国役普請をすることに決め、高木三家に普請奉行を、辻六郎左衛門には立会を命じた。国役普請は宝永四年から翌年にかけて実施された。この時の関係史料には二系統のものがある。一つは、『何郡何村砂入地面直目論見帳』という標題の史料群で、三十三冊ある。これには田畑一枚ごとの被害面積と土砂の量・復旧するに必要な人数が記されている。他の一つは『何郡何村川除砂留御普請目論見帳』と題される史料群で、四十九冊ある。これには普請をする堤の規模、そのために必要な土の量、人足数が記されている。ここにも元禄十六年以来の幕府の治水についての基本的態度がうかがわれる。すなわち治水には河道の現状維持をもって第一とし、このため美濃一国の調査を行ない、この調査結果をその後の基準としたのである。この種の調査は宝永七年迄つづいている。           
 宝永六(一六二九)年、多芸郡金屋村他十ヵ村は、土地が低く牧田川の洪水に悩まされていることを訴え、川筋改修の公儀普請を出願したがなかなか実現しなかったので、自普請を願い出て許された。高木家にはこの際実施見分などに参加している(三七七・三七九)。           
 宝永の取払い普請以降、木曽三川流域全体にわたる水管理がなされるようになったとはいうものの、流域の水害は一向に減らなかった。そこで村々は川浚え等の対策をとることを願い出(四二五)、寛保二(一七四二)年には、高木家および滝川小左衛門が川浚え普請目論見見分を行なった。しかし、この後も村々よりの普請願書は増える一方であった。           
 ここに至って幕府も水行普請を行なうことを決意し、延享四(一七四七)年十一月、奥州二本松藩主丹羽高庸に、美濃、伊勢両国の御手伝普請を命じた。これが美濃における御手伝普請のはじめである。そして翌十二月高木三家に対しても普請見廻役を命じた(四五九〇・あ)。この普請の目的は、木曽川の流水が伊尾川に流入することを減らし、同時に伊尾川の流れを速くさせようとすることであった。このことは洪水の原因が木曽三川の下流での合流にあることを認識し、その対策として三川分流を目指すようになったことを示すものである。御手伝普請の導入と、三川分流への採用とは、幕府のこの地における治水政策の変化であろう。           
 すでに享保年中から大榑川沿岸の福束輪中および多芸輪中の村々は、大榑川に堰を設けることを出願し、延享の御手伝普請後もたびたび笠松や多良に自普請を願い出ていた。寛延三(一七五〇)年十月二十三日に至って高木三家ほか諸役人の見分が行なわれ(六六六)、翌年正月工事が許可された。この結果大榑川の流入口に喰違堰が設けられた。           
 延享の御手伝普請、寛延の大榑川喰違堰自普請と三川分流案に沿って工事がなされたが、木曽三川流域は依然洪水氾濫から逃れることができず、村々の百姓等は次々と普請の願書を提出した。幕府もすててはおけず、改めて三川分流ととりくむことになった。この普請が一般に宝暦治水とよばれるものである。このため幕府は宝暦三(一七五三)年五月代官吉田久左衛門等を美濃に派遣し、高木三家や青木次郎九郎の立会いのもとに、水行普請所見分を行なわせた(七一五)。久左衛門は五月から七月にかけて見分を行ない、同時に水損村々から工事の願書や意見書を提出させた。見分結果や願書などをもとにして久左衛門は復命した。幕府は彼の報告をもとに普請計画をたて、宝暦三年十二月濃州・勢州・尾州川々御手伝普請を薩摩藩主島津重年に命じた。同時に地元の笠松郡代や高木三家にも普請の用意をさせた。普請は定式普請や宝暦三年の洪水破損復興のための急破普請からなる第一期工事と、三川分流のための水行普請や圦樋普請などよりなる第二期工事とに分けて行なわれた。第一期工事は薩摩藩の普請総奉行平田靱負の到着前、宝暦四年二月二十七日に急に着手することになり(一〇三二)、五月二日には全部完成した。第二期工事には油島締切、大榑川洗堰等の難工事があり、工事資材の調達にも非常な苦労があった。工事は九月二十四に開始され翌年三月二十八日迄に完成した。この普請に要した費用が約四十万両、仕事にあたった人数が一日に少なくとも千八百人以上という大規模なものであった。しかも普請にあたっては八十七名の犠牲者があり、うち総奉行平田靱負も含めた五十四人が自刃するという惨状もあった。こうして三川分流に正面からとりくんだ宝暦治水は、工事の規模においても、成果においても木曽三川流域の治水史の上で画期的なものであった。           
 宝暦五(一七五五)年五月出水があり、宝暦治水によってできた大榑川洗堰は、堰元の大藪村堤外野畑が欠壊し、洗堰は効力を失った。そこで同年および翌年高木三家、青木次郎九郎等は見分して(二二二九)普請計画をたてた(二二三〇)。そして翌七年洗堰自普請がなされた。           
 宝暦十(一七六〇)年十月には、木曽川通り羽栗郡七ヵ村、各務郡一ヵ村、郡上通り武儀郡三ヵ村、山県郡二ヵ村の計十三ヵ村で国役普請が行なわれ、高木三家と美濃郡代千種清右衛門が見廻りを命ぜられた(二二四七)。この時の出来形帳は七冊が残っており、普請の実態を伝えている。           
 宝暦十一(一七六一)年二月、方県郡、山県郡、各務郡、加茂郡、海西郡のうち十二ヵ村において国役普請が行なわれ、これに際して高木三家は見廻りを命ぜられた(二二八八)。その模様は『見分日記』(二二九四)や出来形帳(二二九五)によって知ることができる。           
 明和元(一九六四)年には、加藤平内、松波平右衛門知行所池田郡、大野郡の三ヵ村で国役普請があった。この普請のため幕府は、高木三家に対して前年十二月に普請見廻りを命じている。なお普請の出来形帳(二三三三)は五月付で書かれている。           
 明和二(一七六五)年には、島角右衛門知行所武儀郡横越村、笠神村郡上川通りの国役普請があり、四月に高木三家は見廻り御用を命ぜられ、これを勤めた(ニ三三八・い)。同年十月にも木曽川筋坪内惣兵衛同権之助・同権左衛門知行所羽栗郡十四ヵ村で国役普請があり、またしても高木三家に見廻りが命ぜられた(二三四三・あ)。この両所における普請の出来帳は翌三年七月に作成された(六一六五・二三六〇)。           
 明和二年、木曽三川流域の村々は、たびたびの洪水によって大きな被害を受けた。村々は笠松郡代および高木三家に続々と普請願書を提出した。このため幕府は、明和三年になって長州藩主毛利重盛、若狭小浜藩主酒井忠実、周防岩国城主吉川経倫に対し、濃州、勢州川々御普請御手伝御用を命じ、高木三家に対しても普請御用を申し渡した(二三六五・い)普請は四・五月を中心に行なわれ、六月には見分がなされた。           
 明和四(一七六七)年二月には、日根野一学知行所長良川通り海西郡者結村に国役普請があり、さらに同年四月には伊東伊豆守領分、三淵縫殿助・奥山甚兵衛知行所の池田・安八両郡村々にも堤川除国役普請が行なわれ、高木三家は見廻り役を勤めた(二三六六)。この時の出来形帳は九月に作られた(二三六七)。           
 明和三年から四年にかけて、木曽川筋の羽栗郡村々、武儀郡村々に水害が発生し、関係村々から普請願書が出された。そこで同年十二月に高木三家に対して濃州・勢州川々の普請の見廻りが命ぜられた。普請は翌年に行なわれたが、五月に至って御手伝普請とすることになり、幕府は阿波徳島藩主蜂須賀重喜、豊後岡藩主中川久貞、筑後久留米藩主有馬頼僮、伊予大洲藩主加藤泰武、筑後秋月藩主黒田長恵にこれを命じた。           
 御用勤書によれば、明和六(一七六九)年に、高木三家は勢州桑名川通り与左衛門新田、茂左衛門新田跡流作場水行故障有無見分を勤めたという。           
 明和七(一七七〇)年閏六月には、津田英太郎、中川左門知行所羽栗郡村々に国役普請があり、高木三家は見廻り役を勤めた(二三七二)。この出来形態は九月付である(二三七三)。           
 このように宝暦以後の治水は、堤防の補強を中心にして行なわれるようになった。これは河道を固定して流水を閉じこめ、水をいち早く海へ流下させようという意図によるものであろう。なお水害発生地域は、宝暦治水以後、各川の中流より上に多くなった。これは大榑川洗堰の完成によって中流の水位が上がったためと考えられ、宝暦治水の影響の一端を示している。           
 安永五(一七七六)年正月、幕府は高木三家に濃州・勢州村々大小川々春役定式普請見廻り御用を命じた(二三八三)。またこの年の十月には、木曽川通り羽栗郡藤掛村他三ヵ村で国役普請が計画され(二三八八)、翌年正月から高木三家が見廻り御用を勤めた(二三九七・い)。普請は五月十日迄に仕上がり(二三九三・つ)。出来形帳も八月に作成された(二四一八)。           
 安永七(一七七八)年七月、美濃は洪水にみまわれ多大な被害をうけた。被害を知った幕府は復旧のため普請をすることに決め、高木三家に濃州・勢州川々普請の見廻りを命じた。翌年正月になって幕府は、この普請を御手伝普請とすることにし、鳥取藩主池田重寛にこれを命じた。高木三家は現地で指揮をとり(二四四九)、工事は二月二十八日迄にできあがった。           
 安永八(一七七九)年十二月、幕府は坪内三家知行所の羽栗・各務の十四ヵ村の木曽川通り国役普請見廻り御用を高木三家に命じた。普請は翌年本格化し、安永九年八月付で出来形帳ができた(二四五一)。           
 石津郡駒野村および羽根村境の谷川は雨の度毎に砂石が流出した。そこで地元民は安永五年以来たびたび普請を願い出、結局安永九(一七八〇)年正月に砂浚えの公儀普請を開始した(二四三三・な)。高木三家は普請の監督にあたり、工事は二月一〇日頃完成した(二四三八)。           
 天明二(一七八二)年六月、高木三家は平岡美濃守知行所中島郡堀津村国役普請見廻り御用を命ぜられた。この普請の出来形帳は翌年四月付になっている(二四六五)。           
 天明三(一七八三)年五月、高木三家は濃州・尾州・勢州川々普請見廻り御用を命ぜられた。この普請は七月に至って、豊前小倉藩主小笠原忠総、日向延岡藩主内藤政脩、和泉岸和田藩主岡部長備、越前丸岡藩主有馬誉純、但馬出石藩主仙石久行の御手伝普請に決められた。普請は八月に完成し、出来形帳(二四八四~二四八六)が残っている。           
 天明八(一七八八)年には、九月に平岡美濃守知行所中島郡堀津村、十月に日根野伊右衛門知行海西郡者結村で国役普請があった。この普請に際し高木三家は見廻り御用を勤めた(二五一一・あ~45)。           
 天明六・七・八年と木曽川流域は連年の洪水にみまわれ、大きな被害をうけた。そこで幕府はこれを救済するため美濃、伊勢川々普請を行なうことにし、寛政元(一七八九)年正月、高木三家にその見廻りを命じた(二五一一・く)。普請は三月に完成した。また同年十月には高木三家は平岡美濃守知行所中島郡内二ヵ村の国役普請見廻りを(二三一七・う)、さらに翌月には坪内三家の知行する木曽川通り八ヵ村国役普請の見廻りを命ぜられた(二五二六・く)。           
 寛政七(一七九五)年にもたびたびの洪水があり、木曽三川流木は甚大な被害をうけた。村々は水難をのがれるために水行直方普請を願い出た。これを受けて幕府も工事をすることを決意し、翌年正月十四日濃州川々普請見廻りを、さらに二十日には水行普請の立会御用を高木三家に命じた(二五四五~二五四八)。           
 寛政十(一七九八)年四月、木曽三川流域は未曽有の洪水によって多くの堤が切れた。そこで幕府は濃州・尾州・勢州の三国にわたる復旧工事を決定し、十月に高木三家にも見廻り御用を命じた。この工事は相当大規模であったようで、高木家文書中にも普請仕様帳、箇所付帳が五十冊以上も残っている。           
 寛政十一(一七九九)年十月に、平岡美濃守知行所中島郡堀津村で国役普請があり、高木三家は見廻りを勤めた(二五六八)。           
 寛政十二(一八〇〇)年九月、幕府は高木三家に濃州・勢州・尾州川筋水行直、其外宮桑名海渡路御普請所の見廻りを命じた(二五七二・あ)。普請は翌年春できあがり、四月二十九日には出来栄見分が行なわれた(二五七二・る)。この普請は終了後に安芸藩主浅野斎賢に御手伝普請が命ぜられた。           
 享和元(一八〇一)年の御手伝普請が済んでまもない七月、木曽三川流域にまたしても洪水があった。この水害復旧のため幕府は、濃州・勢州川々普請をすることに決め、高木家にも見廻りを命じた。普請は翌年にかけて行なわれ、その模様を伝える箇所付帳約二十冊が残っている(二五七八)。この普請も後に御手伝普請とされた。           
 文化元(一八〇四)年は八月以来豪雨があり、美濃・伊勢は大きな被害をうけた。幕府は復旧のために普請をすることにして、十二月になって濃州・勢州川々普請の見廻りを高木三家に命じた(二五九九・い)。普請は約三ヵ月を経て完成し、普請箇所付帳三十六冊が残されている。幕府は文化二年六月になってこの普請を御手伝い普請とすることにし、武州河越藩主松平直恒等に御手伝を命じた。           
 文化十二(一八一五)年六月、木曽三川流域をまたもや洪水が襲った。これに対し幕府は災害復旧工事を決定し、高木三家へも濃州・勢州・尾州の川々普請見廻りを命じた(二七〇三・あ)。この時の工事概容を伝える普請箇所付帳は実に百冊を超えている。普請は翌年二月八日にできあがったが、四月に至って幕府は普請を御手伝普請とすることにして、薩摩藩主島津斉興他六大名にこれを命じている。           
 文政二(一八一九)年六月、美濃、伊勢、近江地方に大地震があり、堤防がそこここで破壊された。そこで幕府は年末に復旧工事を決定し、工事は翌年春まで行なわれた。この普請に際して高木三家は普請見廻りを勤めた(二八九〇)。           
 文政七(一八二四)年正月、高木三家は尾州・濃州・勢州水行直し、普請を命ぜられ(二八九七)、この任にあたった(二九〇〇)。           
 文政八(一八二五)年十一月には、津田卓次郎知行所羽栗郡藤掛村他二ヵ村に国役普請がり、高木三家は見廻り御用を勤めた(二九〇一)。           
 文政九(一八二六)年五月十日、高木三家は三淵土佐守・奥山主税助知行所安八郡南今ヶ淵村の国役普請見廻りを命ぜられた(二九一〇)。また同年十一月には日根野帯刀知行所海西郡者結村での国役普請の見廻りも命ぜられた(二九一二)。           
 文政十(一八二七)年五月、幕府は高木三家に対し東海道佐屋川通り通船路押埋り場所の州浚え普請見廻りを命じた。普請はだいたい七月いっぱいで完成したようであるが、三家はこの間御用を勤めた(二九一七)。           
 文政十三(一八三〇)年、高木三家に対して東海道熱田桑名海路普請の見廻り御用が命ぜられた(二九三二)。           
 天保六(一八三五)年十月、高木三家は安八郡今ヶ淵村国役普請の見廻りを命ぜられた。この時に普請の模様は、七十冊以上も残っている普請箇所付帳が伝えている。           
 天保八(一八三七)年二月、高木三家は安八郡今ヶ淵国役普請の見廻りを命ぜられた(三一六〇・れ)。普請は三月中にできあがり、三月二十四日に出来栄見分が行なわれた(三一六〇・わ)。           
 天保十(一八三九)年四月・五月に木曽三川流域を洪水が襲った。この復旧のため、平岡対馬守知行所中島郡堀津村で国役普請が行なわれることになり、七月に高木三家にも見廻りが命ぜられた(三二〇一)。この普請は八月中にできあがった(三二〇三)。同年十二月には濃州高須輪中や勢州七郷輪中、金廻中村々の囲堤丈夫付普請が幕府で決定され、高木三家にその見廻りが命ぜられた。そこで翌年春にかけて高木三家はその勤役を果した(三二二二)。このときの普請の状況については仕様帳、箇所付帳約三十冊が伝えている。           
 天保十四(一八四三)年十月、再度中島郡堀津村の国役普請が行なわれることになった。普請は翌年二月半ばまでかかった(三三五九)が、この間、高木三家は見廻り御用を勤めた(三三五三・さ)。           
 弘化三(一八四六)年十二月十五日、高木三家は幕府から高須輪中悪水路模様替普請の見廻りを命ぜられた(三四八二)。そこで翌年正月にかけてこれを勤めた(三四九五)。           
 弘化四(一八四七)年十一月二十日、幕府は高木三家に濃州御料私領四十四ヵ村組合の悪水吐伏越樋伏替普請の見廻りを命じた(三四八七)。これをうけて三家は翌年にかけてこの勤役に従った(三五七五)。           
 嘉永三(一八五〇)年八月大洪水があり、木曽三川流域は莫大な被害をうけた。そこで十一月に幕府は濃州・勢州・尾州川々普請を行なうことを決め、高木三家にも見廻り御用を命じた(三六三六)。この工事に関しては約百冊の普請箇所付帳が残っている。工事は翌年春になって完成した(三六三四)。           
 安政二(一八五五)年九月、高木三家は中島郡堀津村および同村枝郷須賀村の国役普請見廻りを命ぜられた(六二五四)。この時の出来形帳は同年十二月付で残されている(三八二三・あ)           
 安政四(一八五七)年七月、羽栗郡藤掛村、三ッ谷村、光法寺村、坂九村に国役普請があり、高木三家は見廻り役を勤めた(三八八七)。またこの他に堀津村枝郷須賀村でも国役普請が行なわれ、ここをも見廻った(三八九七)。出来形帳はともに十一月付である。           
 万延元(一八六〇)年五月に再度の大暴風雨があり、木曽川流域は非常に大きな被害を受けた。そこで同年冬見分の上、年末には勢州、尾州・濃州川々普請が決定され(四一〇五・あ)翌年高木三家にも見廻り役が命ぜられた(四一〇五・え)。この時の普請箇所所付帳、仕様帳で残存しているものは百冊以上に及んでいる。           
 慶応元(一八六五)年閏五月大洪水があった。この復旧のために幕府は濃州・勢州川々を普請をすることにし、同年十二月に高木三家にも見廻りを命じた(四二一四)。普請は翌二年に実施され、普請箇所付帳は六十冊以上が残っている。この普請の見廻りを最後として、高木家の大きな普請への勤役は見られなくなる。           
 この項のもう一つの柱をなすものは川通り巡見史料である。川通り巡見は、宝永の取払い普請以後制度化されたもので、高木三家のうち二家が年番として掛をつとめ、毎年川通役にあたる家臣を川筋に派遣して、笠松郡代方の役人と立会の上で流水の障害の有無を見分させ、必要に応じて障害物を除去し、河道を修復させることである。この巡見に関係する史料は。堤方と川通役との取払い場見分の日取決定のためのやりとりの書状、村々に川通り巡見の日を知らせる先触れ、見分に際しての宿所や案内人等の用意を命ずる廻状、往復の人足を徴発するための先触れ、村方から提出された取払い済み注進状等よりなっている。これらの史料によって、木曽三川流域において近世中期以降とられた河道維持のための恒常的手段が明らかになり、平常時における水との戦いの模様を知ることができる。           
 その他 この項に分類されたものは三つの内容に分かれる。一つは笠松郡代に関するもの、二つは笠松郡代以外の奉行に関係するもの、三つは高木三家や川通り役人に対して堤方役人等治水上で関係を持つ者たちが出した時候挨拶状である。           
 笠松郡代に関係するものは郡代の就任やその動向等を伝える史料で、宝暦九(一七五九)年三月八日の千種清右衛門の郡代就任の挨拶状(三)のように郡代の交替を伝えるものや、慶応三(一八六七)年七月二二日の『笠松郡代岩田鍬三郎様御出府ニ付御残(ママ)別御御使者出役中手控』(六)のような、高木家と笠松郡代のかかわりを示すもの、年不詳の笠松郡代屋敷図(一三)等よりなっている。           
 笠松郡代以外の奉行に関するものは奉行の就任を伝えるものや、その配下の人名録よりなっており、これには天保四(一八三二)年正月付の大垣群奉行以下の人名録(一四)、細井三左衛門町奉行就任通知(一六・あ・い)等がある。           
 時候挨拶状には、年不詳の笠松郡代辻六郎左衛門富守より高木三家に対する寒中見舞状(二〇)、笠松堤方棚橋瀬十郎・水野郡右衛門の三和六左衛門宛年賀状(三三)等が含まれている。

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『高木家文書目録』巻四


序  


 茲に高木家文書目録巻四を刊行できたことは、私たち関係者にとっては、大変喜ばしいところである。本巻は、近世の高木家の日常生活がどのようなものであり、また他家といかなる交際をしていたか等をしめす家政関係の文書の目録を収めている。            
 幕藩体制下における社会の基礎単位は家であり、とくに武士階級にあっては、個人は家の系譜のなかに位置づけられ、そうした位置をもったものとして行為することが要求される。高木家においても、幕府にたいして自らの家の来歴、事績を主張し、家を中心とした生活記録を残しておく必要があった。そのために、先祖、系図、家督相続、親戚、さらには婚姻や養子縁組に関する文書が相当残されており、私たちはこれらを通して、高木家の系譜とその血統的な拡大を知ることができるのである。また高木家には、本学が資料を所蔵する西高木家(二千三百石)の他に、東(一千石)北(一千石)の二家があるが、西高木家がその中心をなすところから、他の二家の相続および家族内の紛争調停の記録等が残されている。           
 高木家は、交代寄合として領知にある多良屋敷に居住することを許され、参勤交代をおこなっている関係上、江戸には江戸屋敷を設け、留守居方をおいていた。これらの屋敷の普請、図面、見取図等が残されている。そこにおける日常の活動記録は、領知における御用日記(一七五〇‐ 一八七〇年)、台所方日記(一八四九‐一八七一年)、江戸の留守居方日記(一八〇八‐一八六七年)として、ほぼ完全に残っている。屋敷内の調度品、書籍類の記録もあり、これらを通して、私たちは高木家の人びとの日常生活や文化の程度を知ることができる。家の制度にあっては、先祖にたいする仏事や葬祭が重要な要素をなすところから、それらに関する記録や、日常生活における作法やしきたり、さらに特別な出来事(たとえば出火)に際しての対応のしかたも記録されている。これらは単に記録にとどめられるだけでなく、後人にたいする先例として機能したものといえよう。           
 高木家は、当然ながら幕府および他藩とくに近くの大藩たる尾張藩との間に交際をもっていた関係で、幕府の大老、老中、側用人、若年寄、および尾張藩用人からの公私の書状が残されている。さらに同家は、真宗東本願寺(大谷派)の門徒であっただけでなく、同派の寺院から軍事的援助をうけたり、婚姻関係を結んでいたところから、東本願寺門跡からの書状をうけている。なおそのほか高木家と他家との往復書状の控や相互の贈答品に関する記録もみることができる。           
 これらの古文書の整理には、その解読、史料的性格の判断、分類等に多大な労苦を必要とする。高木家文書目録刊行調査室の運営に当てられた運営委員会の委員はもとより、労苦の多い作業を直接担当してきた笹本正治助手および補助員の方々に深甚の謝意を表しておきたい。また本書の解題ももっぱら笹本助手の執筆に成るものである。           
 なお、前巻に引続いて刊行費を支出された文部省学術国際局情報図書館課の御好意に心から感謝するものである。           
 昭和五十六年九月           
  名古屋大学附属図書館長           
        横越 英一  


解題  


 本巻には、近世における高木家の日常生活がどのようなものであり、また他家との交際がいかなるものであったか等を示す、大項目「家政」に分類された史料一万二七九点の目録が収められている。           
 この大項目はつぎの一一の中項目からなっている。「1、系譜」には、高木家の経歴や家系にかかわる史料一九三点、「2、家督」には、西高木家およびその縁家の家督相続に関係した史料五七四点、「3、日記」には、高木家の当主の動向や日常生活等を記録した日記四五二点、「4、書状」には公的機関あるいは公的な性格を持つ家や人物から高木家にあてられた書状二四九〇点、「5、交際」には高木家が他家との間でやりとりした贈答品等に関する史料三七〇点、「6、規式」には、日常生活あるいは特別な行事等に必要な作法やきまりに関する史料一〇二点、「7、家作」には、高木家の多良屋敷・江戸屋敷の建築・増築・修理・調度品等についての史料七九二点、「8、書籍」には、高木家文書中に残っている書物三五〇点、「9、学芸」には、家内の者が学んだ学問や芸術にかかわる史料八四点、「10、吉事」には、高木家あるいはその親戚にかかわる婚姻・養子縁組等の慶事に関係する史料二五四四点、「11、仏事」には、高木家もしくは縁家の葬儀等についての史料二二二八点、をそれぞれ分類した。           
 以上のように、本巻に集められた史料は、交代寄合の旗本である高木家の生活を知る上で興味深いものが多い。以下小項目ごとにその内容の概略を述べていくことにする。           
 なお、本巻に収録された史料の多くは、「高木家文書調査室」発足当初に整理されたものであるため、ややもすれば分類に混乱がみられる。しかし、現時点では全面的な改訂は不可能なので、一応整理された分類に従って、目録も作成しておくことにする。           
 先祖書 ここには、高木家の先祖の事蹟に関係する史料七三点が分類されている。           
 本項の内容は大きく五つに分けることができる。一つは、『先祖書』そのもの、あるいはこれに関係するもので、一八点ある。『先祖書』は一〇代目の修理貞臧までを記録した寛政三(一七九一)年のもの(一)と、一一代目の修理経貞まで記載した弘化三(一八四四)年作成のもの(七)とがある。ともに幕府に提出された『先祖書』の控であるが、後者の方が圧倒的に大部である。これは幕府からの種々の質問に基づいて内容が増したためで、とくに二代目彦左衛門尉貞久・三代目権右衛門貞利の記載は引用史料が多くなっている。           
 二つは、「系図」の表題を持つもの、もしくはこれに類するもので、一三点ある。内容は『先祖書』とほとんどかわらないが、血統を中心に記され、事蹟は簡略化されている。           
三つは、高木家の先格や由緒等をまとめたもので、七点ある。           
四つは先祖書や系譜を作成するにあたって出された幕府からの問いあわせや返答書の控で、七点ある。           
五つは、高木家の知行地や石高等に関するもので、二八点ある。           
 名書 ここには、高木家の当主、もしくは嫡子の名乗および経歴等に関係する史料七〇点が分類されている。           
 内容は大きく五つに分けられる。まず、高木家代々の名乗と幼名・諡等をまとめた「御代々御本名御寿号」(一)と「高性(ママ)名書」(三五)の二点をあげることができる。           
 次に「明細書」およびこれに関係した文書の一九点がある。「明細書」は短冊形の紙に、石高・住所・本国生国・名前・父親・年齢・略歴などが記されている。これらは幕府大目付に差出されたものらしく、その旨を朱書しているものも散見できる。したがって高木家文書中に現存しているものは、その控か下書だと考えられる。           
 第三は、高木家内の者の改名に関するもので、二四点ある。内容は、改名にあたっての届書、幕府からの呼出状、改名却下の書付、その他やりとりされた書状等である。           
 第四は、武鑑についての書状や書付で、九点ある。近世の武士にとって格式は重要であったので、武鑑には絶えず注意が払われていた。高木家でも、江戸時代を通じて、板元に自家の記載部分の訂正を何かと求めていたようで、それに関する天保一五(一八四四)年と安政七(一八六〇)年の書付が残っている。           
 第五は、高木家の当主の花押や印鑑で、一六点ある。花押は一枚の紙に名乗とともに記されており、幕府に提出したものの控か下書であろう。印鑑は短冊に「鑑判高木新兵衛」と記し、印文「篤貞」の黒印が捺されているもの。切紙に「印鑑」と書き、印文「多良印章」の朱印が捺され、その下に「中大夫高木弾正家来」としたためられたもの。短冊に「印鑑」と記し、その下に「多良西高木用所」の印文の判を黒印で捺して、「美濃罷在候交代寄合高木弾正」と書いたもの等がある。           
 続書 ここには、高木家と親族との続き柄を示す史料を中心に、五〇点がまとめられている。           
 この中には三つの内容的なまとまりが見られる。一つは、高木家の続書で、七点ある。多くは美濃紙横帳あるいは半紙横帳の冊子になっている。最初に高木某続書と記載され、続いて同姓の者、父母と男子の名、女子の嫁ぎ先、本人の兄弟・甥・姪・従弟・孫の順に父方の親族が列記され、次に母方の従弟等が同じように記されている。そして最後に遠類、縁家の者が書かれている。続書の多くは下書であるが、とじるのに水引が利用されているもの(四)もあるので、おそらく高木家の婚姻に際して用意されたものであろう。           
 二つは、高木家の親戚の続書で、二五点ある。記載内容は高木家のものとほぼ同様で、水引によってとじられている。ほとんどが高木家の娘の嫁ぎ先のものであるので、婚姻時に相手の家から受けとったものと考えられる。           
 三つは、「御両敬書」の表題を持つ十八点である。これらは高木家が親戚等親しい間柄にある大名や旗本との間で、相互の訪問・応対・文通等の交際にあたって、同等の敬礼を用いるために書きまとめておいたものである。           
 当家 ここには、西高木家の相続に関する史料四六二点が分類されている。           
 このうちでは、元禄一〇(一六九七)年に第六代新兵衛貞則が隠居し、第七代五郎左衛門衛貞が家督を相続した際のものが最も古く、九点ある。ついで享保一三(一七二八)年に第八代修理貞輝が相続した時のものが八点、以下享保一六(一七三一)年の第九代新兵衛篤貞のものが四〇点、明和三(一七六六)年の第一〇代修理貞臧のものが一九点、文化九(一八一二)年の第一一代修理経貞ものが二二〇点、文久元(一八六一)年の第一二代弾正貞弘のものが六六点、明治四(一八七二)年の第一三代福之助貞正のものが七〇点、というように残っている。なお代のかぞえかたは『先祖書』によった。           
 これらの文書は、幕府に対して相続の許可を求める願書、幕府よりの相続許可の書付、参府に関する書類、参府中の日記や金銭出納帳、諸向へ家督相続を知らせる書状の控、祝儀の進上目録やその品目覚等からなっており、旗本身分の家督相続がいかにしてなされていたかを伝えている。           
 他家 ここには、東高木家と北高木家の家督相続に関係する史料一一三点が分類されている。           
 東高木家の相続については、安永二(一七七三)年の第六代大炊貞歳、同九(一七八〇)年の第七代右膳演貞、天明元(一七八一)年の第八代中務貞直に関係するものが、それぞれ各一点ずつ残っている。これらはいづれもその時の模様をまとめたもので、半紙横帳に記載され、同一の袋に入っている。なお東高木家では、文政七(一八一〇)年に、第九代内膳貞教と隠居遯こと先代藤兵衛貞直がいさかいを起した。この親子の不和は、西・北の両家が仲裁に入った結果、翌年両者の間に規定書がとりかわされて落着したが、この事件に関連する史料約五〇点もここに収録されている。           
 北高木家については、宝暦三(一七五三)年の第七代玄蕃貞明、同五(一七五五)年の第八代一学貞一の相続についてまとめた半紙縦帳各一冊、寛政四(一七九二)年の第一〇代兵庫貞雄に関する半紙縦横帳と書状、同六(一七九四)年の第一一代大次郎貞興に関する半紙縦横帳三冊、文化七(一八一〇)年の第一二代玄蕃貞金の養子願書とその関連書状二四点、安政四(一八五七)年の第一三代図書貞郷関係三点、明治六(一八七三)年の貞明(第一四代にあたろう)関係四点などの史料がある。           
 こうした史料は、西高木家が高木三家の中心であったため、他の二家から種々の連絡がなされたことの結果として、また西高木家自身の例書として、まとめておかれたものであろう。           
 御用日記 これは、西高木家に生起した公的な事件を中心に、家臣が日を逐って記録した日記で、寛延三(一七五〇)年から明治三(一八七〇)年までの分が、ほぼ完全に残っており、三三三点ある。           
 日記の内容は多岐にわたるが、主として幕府の動向やそれに関係する江戸留守居との種々のやりとり、領内で起きた事件、川通りの見廻りや治水のための普請、高木家内で起きた事件や来客、年中行事等がこと細かに記されており、近世の高木家の生活や高木家領内の事柄等を知るのに恰好の史料である。しかしながら保存状態が極めて悪く、大部分が虫・湿害のため固着しているので、今後綿密な補修が必要である。           
 留守居方日記 高木家は旗本ではあったが、交代寄合として領知の多良に住むことを許され、参勤交代を行っていた。このため高木家の江戸屋敷には留守居方がおかれた。留守居方日記はこの江戸留守居方の日記で、文化五(一八〇八)年から慶応三(一八六七)年までの分が、ほぼ完全に六三点残っている。           
 日記には、交代寄合を中心とする、高木家と同格の家の江戸留守居同志のつきあいの模様、幕府からの種々の連絡、多良の高木家との間でやりとりされた書状等が記録されており、江戸留守居の役割や江戸屋敷の生活等を伝えている。           
 台所方日記 高木家の台所方の役人が書き継いだ日記は、嘉永二(一八四九)年から明治四(一八七一)年までの分が、ほぼ連続して三〇点残っている。           
 記録内容は、当番・非番の者の氏名、高木家の当主の動静、山林や領内の見廻りの様子、日常の出入費の模様、作事の状況等よりなっており、御用日記と補完関係をなしている。保存状態はよくないので、今後補修せねばならない。           
 その他 ここには、日記のうちで前の三小項目から洩れたもの二六点が収録されている。           
 内容的には大きく五つに分けられる。第一は、御用日記の下書ともいうべきもので、九点ある。これらは高木家の日々の出来事を、その都度家臣が書きまとめていたものである。           
 第二は、高木家の家臣が特別な用事を命ぜられて他所へ出張した際の日記で、七点が数えられる。たとえば三和六左衛門が天保五(一八三四)年に金策のため大坂へ行った折のもの(四)、同じく嘉永六(一八三五)年に名古屋ヘ出張し、尾張藩に来年の参府中長屋を拝借したい等と申し入れた際のもの(九)等である。           
 第三は、高木家に起きた特別な事件を記録したもので、江戸屋敷の出火についての覚(一五)、参府の折の旅日記(一七)等四点がある。           
 第四は、台所方日記に先行すると思われる勝手方の日記で、明和四(一七六七)年(一三)、明和五年(一六)、安永三(一七七四)年(一)の三点がある。           
 第五は、右以外のもので、書状の到来覚(一〇)、第一一代修理経貞の夫人於雅に関する日記(二〇・二一)の三点である。           
 大老奉書 ここには、江戸幕府の大老職にあった者、およびその用人から、高木家にあてられた書状八五点が収められている。           
 差出人が大老になっているものは七〇点で、大老が個人として私的に高木家にあてた書状二点と、大老という役職として公的に出した書付六八点からなっている。           
 書状の書式は、奉書紙を折紙にして用紙とし、差出人の苗字を完全に書き、宛名の敬称が殿になっている。このうち一点(一)は、松平(柳沢)美濃守吉保が差出人である。形式は側用人奉書として分類したものと同じであるが、彼は最高官職として大老までなっているので、ここに入れてある。内容は年始に関するものである。他の一点(一一)は、井伊掃部頭直幸が彦根城の火災について伝えてきたのである。           
 公的な立場から出された書付には、将軍の意を奉じている旨の文言はない。そこで厳密な意味ではこれを奉書と呼ぶことはできないのであるが、用人からの書状や高木家の側ではこれを奉書と呼びならわしているので、分類項目では書付をそのまま奉書とし、表題をつける際には書付としておいた。用紙には越前奉書紙を折紙にして使い、同じ紙による折紙の包紙がある。差出人の苗字の二字目は記されておらず、敬称は殿である。一般に「書状令披見候」で始まり、「恐々謹言」と結ばれている。内容は将軍の代替、将軍宣下、隠居・進発といった動静、あるいは老中の卒去等の幕閣に関するもので、書出し文言で判明するように、こうした出来事に対して高木家が出した挨拶状や伺状への返書である。           
 大老の用人からの書状には、大老書付に用いられたものよりやや薄手の奉書紙が、切紙・切包の形で用いられ、宛名は高木家の江戸留守居になっている。これらは大老書付をとりに来るようにと伝えたもので、一八点ある。           
 老中奉書 ここには、幕府の老中職にあった者、およびその用人から、高木家に差出された書状一三四七点が分類されている。なお老中へは、側用人・若年寄から昇進するものが多い。そこで文書を発給した当時の発進者の地位がわからない時には、最上の地位として、この項に分類してある。           
 差出人が老中の地位にあるものでも、私的な立場から出したものの表題は書状としてある。書式は大老の場合と同じである。記載内容は、高木家からの年始の挨拶や贈答品等に対する礼、あるいは自分が新たに加判の列に加わったこと等を伝えるものである。           
 差出人が老中という役職のもとに出したものは書付と表題をつけておいた。書式は大老のものと同じである。内容は、第一に将軍家(御三家・御三卿を含む)に関することで、子女の誕生やその成長に伴う種々の祝事、縁組・婚礼・官位昇進、あるいは将軍の代替・将軍宣下・病気快復・居所移転・社寺参詣・薨去・法事、さらに年始や暑中見舞等の季節の挨拶等であり、第二に、老中の卒去等幕閣に関すること、第三に、改元に関すること、第四に、立坊・即位・女御入内・崩御等の朝廷に関すること、第五に、縁組願いに関する返事、在所到着報告・御目見得・家督相続等の高木家での出来事に関すること、以上大きく五つに分けられる。そしていずれも、高木家から老中にあてて出した伺書や挨拶状への返書という形式をとっている。           
 老中の用人が差出人となっているものは、老中書付を高木家側に渡すために、高木家の江戸留守居にあてて、出頭を求めたものである。           
 側用人奉書 ここには、側用人が役職の上から高木家にあてて出した、公的な内容を持つ書付三六点が分類されている。           
 用紙は奉書紙で折紙になっている。多くのものには包紙があるが、大部分は書付自体とは異なる薄手の奉書紙を利用して、糊封にしてある。大老書付・老中書付では差出人の苗字の二字目が記されていなかったが、側用人のものには全部記されており、宛名の敬称も「様御報」となっている。「御状令披見候」と書き始められ、「恐惶謹書」で終わるが、文中では必ず将軍家内の者の機嫌について触れている。           
 書付の内容は、年始に関するもの一四点、将軍家に起きた事件に関するもの一九点、高木家当主の在所到着や縁組に関するもの三点で、老中書付とほとんど同じである。           
 若年寄奉書 幕府の若年寄が高木家にあてて出した、公的な内容を持つ書付一四九点が収められている。           
 書式は側用人書付とほとんど同じであるが、文書の折幅が側用人書付より広くなっており、包紙は美濃紙を用いている。書き出しは「御状令拝見候」で「恐惶謹言」で終わっている。また五点を除いて連署で出している点に特徴がある。           
 内容は、年始に関するものが一三〇点、高木家当主の在所到着に関するものが一七点、家康の二〇〇回忌に関するものが二点である。           
 尾張藩用人奉書 ここには、尾張藩の家臣が藩主の意を奉じて高木家の当主にあてた奉書を中心に、四五一点が分類されている。           
 これらの文書は薄手の奉書紙を折紙にして用い、美濃紙で糊付された包紙がついている。書き始めは「一筆啓上」あるいは「御札致拝見」で、書き止めは「恐惶謹言」となっている。続いて差出人の姓名が記され、日付の下に実名と花押が据えられている。宛名の敬称は「殿」である。           
 文書の内容は大きく三つに分けられる。一つは、藩主の意を家臣がうけたまわって出した奉書で、藩主の子女の出生や諸祝事、藩主の出府や帰府といった尾張藩内の出来事、あるいは高木家での嫡子初御目見得、家督相続等についての伺状や挨拶状、さらに暑中見舞いや寒中見舞等の季節の挨拶状等からなっている。           
 二つは、家臣が尾張藩を背景にして公的な立場から出してはいるが、藩主の意を奉じた旨の文言を欠いているもので、倹約令を施行することの伝達や年賀等を内容としている。表題には書付としておいた。           
 三つは、高木家から尾張藩主にあてて、挨拶状等を送ってきたものの、藩主が不在のためその内容を江戸に伝える旨返事をしてきたもので、家老職の者が差出人になっている。表題には取次状としてある。           
 本願寺門跡書状 ここには真宗大谷派に東本願寺門跡から高木家にあてて出された書状二四一点が収められている。差出人の門跡は、第一七代真如光性から第二一代厳如光勝までの五代にわたっている。           
 高木家は本願寺の門徒であり、古くから真宗の寺院と関係を持っていた。たとえば、小牧長久手の戦で高木一党は徳川家康に味方をしたため、豊臣秀吉の軍によって居城の駒野城を攻められたが、この時真宗の伊勢桑名郡安田村の法泉寺門徒が高木氏側の加勢に来ている。そして西高木家からは、第三代貞利の娘が法泉寺住職恵済の妻となっており、第一〇代貞臧の娘は東本願寺の末寺下総国妙安寺実睿に嫁いでいる。また本来西高木家の宗家であった東高木家では、初代貞友の娘が法泉寺の流済に縁付いており、第二代の貞次は法泉寺流済の二男として生まれた者であった。このように高木家は、古くから本願寺と結びつきを持っており、近世では引き続き門跡と書状のやりとりをしていたのである。           
 用紙には奉書紙を折紙にして用い、美濃紙を使った糊付の包紙があるが、古い時期のものの包紙はほとんど残っていない。多くは「如示論」で書き始められ、「不宣」で終わっている。年記はなく、日付の下に門跡の名前と花押が記され、宛名の敬称は「殿」である。           
 内容は、年貢・暑中見舞等の季節の挨拶、家督相続等の高木家に起きた事件に関すること、門跡の遷化・新門跡の婚姻等東本願寺の出来等に係わるもの、以上三つに分けられる。           
 書状留 高木家から他家にあてて出した書状、および他家より高木家にあてられてきた、宝暦三(一七五三)年より明治三(一八七〇)年に至る書状の控、一七八点がここに収録されている。            
 内容からすると大きく六つに分けることができる。一つは、「御文言留メ帳」(一一九)、「御呈書御奉書御文言留」(六〇)等と表記されているものである。呈書というのは、将軍の代替や天皇の即位等の大きな事件、あるいは年始や暑中見舞等の季節の変化、家督相続や在所到着といった高木家内の出来事に関して、高木家が幕府や尾張藩に呈出した挨拶状や機嫌伺状のことである。奉書は、呈書に対しての返書として高木家にあてられた大老奉書から尾張藩用人奉書にいたるまでの前記五種類の文書の総称である。           
 二つは、「御請書留」(一六六)等と記されているものである。これには、大目付から出された回状に対し、その内容を遵守することを誓った請書がまとめられている。           
 三つは「御奉札留」(一四〇)、「来御奉札留」(一四八)といった表題を持つもので、高木家の用人が高木家と関係を有する藩や役所の用人との間で、年賀・家督相続・葬儀・法事・暑中見舞・寒中見舞等の出来事や儀礼に際してとりかわした書状が控えられている。           
 四つは、「雑留記」(一七三)等の表記のあるもので、高木家の当主と尾張藩の家老あるいは幕府老中の用人等との間でやりとりされた、家督相続・当主の逝去等についての挨拶状をまとめたものである。           
 五つは、「笠松・大垣・加納・切通・年賀状案内紙」(一七一)や「諸文格留」(一七二)等で、高木家として手紙や書付を書くにあたって、相手方の身分や格式に応じて、書式や文言をどのようにしたらよいかという目安がまとめられている。           
 六つは、「雑留」(一七四)のように、以上の五つの分類の中に入れることができない種々雑多な文書や書状の控である。           
 贈答留 ここには、高木家が他家と交際していくにあたって、贈ったり受贈したりした贈答品に関する史料三四〇点が集められている。           
 内容は大きく二つに分けることができる。一つは、「来音信帳」あるいは「遺音信帳」の表題を持つものである。前者には高木家が他家より受贈した品物、後者には高木家が他家へ贈った品目が子細に記録されている。旗本あるいは大名身分の家の贈答品の内容、高木家の交際範囲等を知るのに好都合の史料といえよう。「遺音信帳」は、元文二(一七三七)年より明治元(一八六八)年に至る間のものが一〇七点、「来音信帳」は、延享元(一七四四)から明治三(一八七〇)年までのものが一〇四点残っている。そして八五年分については両者共にそろっている。また一方が欠けていても、他の史料によってそれを補充しうる年もあるので、贈答品を長い年月にわたって知りうるという意味でも、これらの史料は注目される。           
 もう一つは、「遺音信帳」「来音信帳」を除いた贈答に関する史料である。この中には「御贈答御状留」(三一八)・「歳暮帳」(二二九)のように、一年間分の贈答品をまとめて整理したもの。「殿様御病気ニ付諸向御見舞扣」(二四〇)のような、家内の者の病気・出産・結婚あるいは火事といった、高木家に起きた特別な出来事に関する贈答品関係の史料。また、高木家の在所は山中にあったので、秋になると領内からとれた松茸を、毎年知音の者に特別に贈っていたが、これに関する「御音物茸ヶ所付覚帳」(二三三)といった史料もある。さらに他家から高木家に贈られてきた肴料等の包紙、あるいは進上目録等もここに収められている。           
 その他 ここには、高木家の交際に関する史料のうちで、贈答に係らない史料三〇点が分類されている。           
 内容は種々雑多であるが、この中で一番点数の多いものは、天保四(一八三三)年に東本願寺の門跡が関東に下向するに際して、修理経貞が途中で面会したいとかけあった際の書状で一三点ある。ついで高木家の当主が京都の三条家と九条家へ立入りすることができるようになったことに関する史料が五点ある。これ以外にはまとまりがないが、交際上のやりとりの中で書かれた書状がほとんどである。           
 規式 ここには、高木家の日常生活における作法やしきたり、特別な出来事に際しての対応の方法等に関する史料一〇二点が集めてある。           
 内容的には大きく四つに分けられる。一つは、日常生活・人生の通過儀礼、あるいは年中行事等における高木家のしきたりや儀礼上の注意事項をまとめたもので、三五点の史料がある。このうち明和四(一七六七)年の「御定目」(三一)は、種々の出来事に際しての食事品目や台所方の作法等を、台所方役人にあてて示したものである。また安永五(一七七六)年の「若殿様御弘御宮参御規式帳」(九〇)年は御宮参りの折の作法を伝えている。さらに嘉永三(一八五〇)年の「年頭御礼順手扣」(二)には、高木家家臣達の年頭における当主への挨拶の順番が記されている。           
 二つは、「御鏡餅覚帳」といった表題を持つもので、正月に用いる鏡餅等の餅の数と入用先の記されたものである。これは宝暦四(一七五四)年の「正月加々見餅覚帳」(九)から始まり、明治四(一八七一)年の「御餅取調之覚」(六二)に至るまで、一九点が数えられる。なお餅に関する珍しいものとして、寛政一〇(一七九八)年の「内裡御規式之御餅、黒白赤三ッ」(二二)がある。この包紙の中には当時の餅が三つそのままの形で入っている。           
 三つは、高木家から出火した場合に備えるための調書で、六点ある。この中で天保一〇(一八三九)年の「出火之節御調書」(二五)がいちばん古く、出火時に備えて家臣を三番手までに組織し、各番手の役割を記しており、火事の際の対応方法が具体的に示されている。           
 四つは、結婚式や正月等の特別な日における献立等を記したもので、四二点ある。この中で寛政六(一七九四)年のもの(三二)が最も古い。結婚式や初入部・正月等の献立だけでなく、その時々の例式について記したものも見られる。その中では、「折形」と書かれた包紙(五一)が、樽代包・結納熨斗包等の種々の場合の包紙の折形の見本を中に入れていて注目される。           
 多良屋敷 ここには、多良にあった高木家の屋敷の普請に関係する史料三七八点が分類されている。           
 文書の内容は、普請に参加した番匠・石切・屋根葺・建具師等の職人から仕事をするにあたって徴収した請書・作料の見積り・普請の入札・作料の請求書や受取書、あるいは普請の設計図、材料の入手に関係する書付等からなっている。           
 最も古い史料は、元禄一一(一六九八)年の大工起請文(B・二・二あ)であるが、これが高木家の屋敷普請と直接関係を持つものであるか否かは不明である。なお本項に収められた史料からすると、高木家の屋敷普請は、安永三(一七七四)年に客屋の再建が行われ、暫く時をおいて文化一二(一八一五)年になって埋門の造作がなされた。文政七(一八二四)年には表通りの石垣の積直しと高塀の修覆が行われ、文政一一(一八二八)年には味噌蔵と舂屋の普請があった。天保三(一八三二)年、高木家は火事にあい屋敷が焼け落ちたが、早速再建された。大がかりな屋敷普請は嘉永四(一八五一)年から翌年にかけても行われた。この後、安政三(一八五六)年に土蔵の修理がなされ、翌年には上屋敷・下屋敷の新規目論見が行われた。万延元(一八六〇)年になると、大風雨の被害をうけて屋敷が破損したので修覆を加え、さらに慶応元(一八六五)年には、埋門の普請と屋根の葺かえとがなされている。なお史料の点数としては、とくに天保三年の屋敷再建関係のものが多い。           
 江戸屋敷 高木家は旗本ではあったが、交代寄合として所領に居を構えて住んでいた。そのかわりに参勤交代が義務付けられていて、江戸には江戸屋敷が置かれ、留守居がここを守っていた。この項には、高木家の江戸屋敷に関係する史料二〇〇点が分類されている。           
 元来西高木家が江戸幕府から拝領した江戸屋敷は赤坂門外にあった。しかしこの屋敷は明暦の大火(一六五七年)によって焼失し、屋敷地は火除地の中に組み込まれてしまった。この後西高木家は新たに屋敷を拝領することができなかったので、留守居たちは麹町元山王にあった高木家の一族である高木大内蔵(東家)の屋敷内に同居させてもらっていた。この状況は北高木家でも同様で、高木三家が一つの江戸屋敷を使っていたのである。寛政六(一七九四)年には、この屋敷修理の費用の割合について、北高木家から西高木家ともども四分づつ、東高木家よりは二分の割合で出すことにしたいという申し出がなされ、やりとりした書状が残っている。           
 文政九(一八二六)年に至って、高木修理経貞は江戸屋敷がないのは不都合だからということで、愛宕青松寺前小路の山岡佐次兵衛拝領屋敷内の本多鱗八郎借地四一九坪を建物とともに借りうけることにした。           
 天保六(一八三五)年には、大久保箪司町の播磨守抱屋敷地(元来は水田であったので表向は百姓の名前で所持していた)の二八〇坪を譲りうけ、これを西高木家の抱屋敷にすることにして、翌年幕府へ届書を提出した。           
 天保一三(一八四三)年になると、水野長之助が所持していた牛込原町三丁目横内の内四三一坪を、囲家作その他有形のまま五五両で買い取り、ここを江戸抱屋敷とすることになったので、大久保の地は百姓五郎兵衛に返却された。           
 安政二(一八五五)年六月、修理経貞はこれまで長い間拝借屋敷をいただいていないが、なんとか下賜してくれないかという願書を幕府に提出した。幕府はこの願いを聞き入れ、希望する場所を指定してくるようにと連絡してきた。そこで西高木家では、本所四之橋通り竹本図書頭永領地内を希望した。翌年この地で三〇〇坪の拝領が許可され、江戸留守居達は八月に引越を終えた。           
 元治元(一八六四)年、本所四之橋通りの高木家拝領屋敷三〇〇坪と、麹町貝坂にある阿部徳次郎屋敷九七〇坪とを相対替するという名目で(実際には貝坂の屋敷を買取ったようである)、麹町貝坂に新屋敷を持つことになり、翌年荒れはてていた貝坂屋敷に修覆が加えられた。           
 慶応二(一八六六)年になると高木家は、阿部徳次郎の名義になってはいるが、本来高木家の拝領したものである本所四之橋通り三〇〇坪の地を、五五両で竹村駒之助へ売り渡している。           
 本項にはこうした諸事件にかかわる様々な内容を持つ史料が収められている。           
 調度品 高木家が所持した手まわりの諸道具・日常使用したこと道具等に関係する史料一三九点がここに納められている。           
 史料内容は大きく四つに分けることができる。一つは、高木家の所持した全部の道具を書き出したものである。この中で特に注目されるものは、安永二(一七七二)年に御納戸方が作成した、一番から三番迄の「諸御道具帳」(一)で、これらの帳簿には、夜具・具足・諸色書物・掛物・腰物・小道具・納戸諸道具等の項目がつくられ、それぞれに分類された品物名・その由来・形状等が事細かに記載されており、西高木家がどのような道具をもっていたかを伝えている。この帳簿は安永二年以降も年々改められていて、多くの付箋や注記が見られ、失くなった品物は消されているので、高木家の道具がいかに変化したかを知ることもできる。           
 二つは、召物・夜具等の特定の品物だけを書きあげたものである。その一つである慶応三(一八六七)年につくられた、「御掛物御長持入記」(二一)には、高木家の所持した掛物類がまとめられている。これによれば一番長持には四七箱の掛物が入っており、書では藤原定家・明恵上人・水戸光國・一休宗純・豊臣秀吉・趙子昻・芭蕉・伊藤仁斎・夢窓国師・千利休等の墨跡があり、絵画には英一蝶の龍虎図・谷文晁の四季草花図・狩野雪村の山水画・狩野探幽の山水画・狩野探幽の七賢人等があったという。また二番長持には狩野探幽の獅子画等三一箱が入っており、長持以外に明の季春芳の百鳥・狩野探幽の鷲画等五点が記されている。さらに明治六(一八七三)年には六点の品物を追記している。これらの掛物は現在は伝わっていないが、当時の旗本の家の文化程度を知る上で興味深い。           
 三つは、特定の部所もしくは個人に付せられていた道具をまとめたものである。一例として、天明七(一七八七)年に改められた「御用席附之諸道具」(四)を見ると、家老へ銭箱一、用人へ銭箱一、十露盤二、手錠二、早縄四、十手二、金子はかり一、日記入大箱一、白木戸棚一、白木子箪司一、春慶塗状箱四、春慶塗図無状箱一、白木蝋燭箱二、白木諸帳面入箱大小三、灰炭塗諸帳面入箱三、悉塗同断一、皮龍二、火打箱一、奥向御用諸書物入白木箱一が用席附の道具だったという。           
 四つは、「御召乗物御積り書」(三四)のように、高木家で必要とする諸道具や召物等をあつらえるに際して書かれた注文書、見積書、受取書等である。           
 屋敷図 高木家の多良屋敷、江戸屋敷の図面や見取図等、建物の構築に関係する絵や図、七五点がここに集められている。なお文書と一括になっていて、明らかに多良屋敷と判明するものは、それらの項に入れ、この項には独立して出てきた図面だけを収めた。           
 屋敷図の多くはどの屋敷のものであるかが記されていない。しかしほとんどは、多良の西高木家の屋敷とその附属施設のものと考えられる。また数点の江戸屋敷のものも見られる。この他に江戸城の間取図もあるが、これは参勤交代等に際して用意したものであろう。           
 これらの図面は、寸間や仕様等が細かく記入されていて、屋敷やこれに附属する建造物を建築する際の設計図、あるいはその下書と思われるものと、建造物の位置関係や間取を知らせるために書かれたものとに分けることができる。多くは平面図であるが、中には組み立てると屋敷の模型となる立体図(二八・二九)もある。なお三点を除いて、これが作成された年号は記されていない。           
 書籍 高木家文書中に残る書物およびその蔵書目録等、三五〇点がここに分類されている。           
 書物の内容は多岐にわたっている。まず、法律・制度に関するものとして、『柳宮秘鑑』から諸家の格式について抜き書きしたもの(一)、安政五(一八五八)年の『袖珍武鑑』(七)をあげることができる。つぎに規式関係のものとして、寛政七(一七九五)年七月一二日に写された、幕府年中行事についての『年中行司御古実式法』(一五)、『諸家表門御定式』(一六)等がある。政治・経済については、種籾四囲米法を説いた天保八(一八三七)年の『礎之記』(一九)、アーネスト・サトウの著した「英国策論」(二一)等がある。医術関係には、尾張小山駿亭主人の『中懐諸毒并喰合并毒消手鑑』(二二)、『痘瘡麻疹食物禁好』(二四)等がある。易学、相法関係では、文化一二(一八一五)年正月の『南北相法修身録抜書』(七九)、『相法骨格伝』(八〇)等がある。宗教については、『多度神宮由来略記』(八九)文化八(一八一一)年一〇月の『美濃国谷汲山華厳寺略縁起』(九四)等の寺社の縁起に関するものと、明和七(一七七〇)年の『闡提老翁辻談議』(八六)享和元(一八〇一)年の『泰通院講主法語写』(八八)等のように宗教講話的なものとがある。道徳に関するものとしては、文政九(一八二六)年二月の『通俗陰隲文』(一三五)、天明三(一七八三)年に筆写した『対鶴城諸子問忠』(一三二)等がある。文芸・芸能の類には、瀬川路考の『和歌三人由来』(一四五)・為水春水の『かな読八犬伝』(一四六)等がある。地誌類としては、嘉永三(一八五〇)年の『地球万国山海輿地全図説』(一七五)、『教国尽道具集』(一七六)等がある。言語関係には、文政五(一八二二)年の『尚古仮名用格』(一九八)、弘化四(一八四七)年の『和漢名数続編』(一九九)等がある。また暦は、文政一〇(一八二七)年から大正二(一九一三)年に至る間に、四五冊残っている。以上の他に明治時代の新聞や教科書もここに分類されている。           
 蔵書目録としては、文化元(一八〇四)年一一月の『承陽楼御書籍覚帳』(二四二)、書蔵方による文化八(一八一一)年八月の『手覚』(二四三)等がある。このうち天保一三(一八四二)年九月の『御書蔵御書籍目録』(二四四)によれば、当時高木家は和漢の諸書一四四六点を所蔵していたという。そのほとんどが、散失してしまったのである。           
 この他に、書籍の貸借に関係した書類もこの項に入っている。           
 学芸 ここには、高木家内の者の学問に関係する史料八四点が分類されている。           
 内容は大きく六つに分けることができる。一つは、文化一三(一八一六)年に高木家が尾張藩から、藩校明倫堂の教授を勤めたこともある儒学者の泰鼎を招いた際のもので、交渉のために尾張藩役人との間でとりかわされた書状が八点ある。           
 二つは、芸能や趣味に関係するもので、能の開催(一二)、茶の湯の覚書(二四)、管絋稽古の書付(三)、森田流笛書付(二三)、乱舞の入門(七)、将棋(一一)等のついての史料がある。           
 三つは、字引(一七)や種々の書物から書抜(一八)、語句や教訓の覚書(一九・二〇)といった、一般知識として必要な事柄をまとめたものである。           
 四つは、源頼朝・足利尊氏・足利義満・足利義持・足利義教・足利義政・足利義稙から、美濃の遠山氏にあてた古文書の写(二五~三四)と、栗笠村の佐藤家に伝わった古文書の写(四五)である。これらは教養のために書写されたものとして。この項に分類した。           
 五つは、当時世上で喧伝されていた事件の記録で、山県大弐の仕置についての記録を写したもの(三六)、田沼意次の処罰覚(三七)、銭星五兵衛一件(四〇)等がある。           
 六つは、以上の中に含まれないもので、兼好法師の筆跡だと伝えられる古今集の歌切(四二)勉学の心得について記した宇恵尺牘(四六)等がある。           
 婚姻 ここには、高木家の関係した婚姻についての史料を中心にして、二二四三点が分類されている。           
 内容は婚姻に至るまでの交渉の書状、結納をするにあたっての覚、慶事における入用費の見積書、結婚式の次第、式で着用する召物の注文書、式当日の献立表、祝儀の覚、後日まとめた婚姻全般についての覚帳等からなっており、およそ婚姻に関するすべての事柄を含んでいる。           
 これらの史料から知られる最も古い婚姻は、元禄一六(一七〇三)年に西高木家第六代貞則の子貞澄が、土屋頼母の婿養子に行った際のものである。ついで寛保三(一七四三)年の第九代新兵衛篤貞と小笠原左衛門の娘との縁組、明和四(一七六七)年の第一〇代修理貞臧と増山河内守正賢の妹於千との縁組、明和七(一七七〇)年の北高木家の監物貞固の結婚、天明五(一七八五)年の修理貞臧の娘於俶の泉州岸和田藩家老中与次兵衛のもとへの嫁入、寛政三(一七九一)年の於蘭と尾張藩士の小笠原三九郎長盈の縁組、同四年の貞臧の長子長橘永貞と市橋下総守長昭の妹於良との縁組、寛政七(一七九五)年の於保屋と桑名藩士の山田久弥政誠の結納取かわしと翌年の嫁入、享和元(一八〇一)年の永貞の妻死亡のあと、同三(一八〇三)年の永貞の尾張藩家老竹腰山城守勝起の娘御仲との再婚、同年の於能登の東本願寺末寺下総国妙安寺実睿との結婚、文化四(一八〇七)年の於邦の尾張藩士成瀬吉左衛門喬治のもとへの嫁入、同年の於鉄の小浜藩老臣酒井伊東忠壽のもとへの嫁入、文化一四(一八一七)年第一一代修理軽貞と膳所藩主本多兵部大輔康禎の妹於雅との結婚、文政一二(一八二九)年の経貞の娘於鍈の尾張藩士間宮外記のもとへの嫁入、天保七(一八三六)年の於鍞の彦根藩老臣宇津木兵庫泰和との結婚、天保一五(一八四四)年の第一二代鉄三郎貞広と勢州亀山藩主石川日向守総和の妹於千賀との縁組、同年の於銈の北高木家の求馬貞卿のもとへの嫁入、翌年の於千賀の死のあと、安政四(一八五七)年の貞広の和歌山の三浦長門守の妹於待との再婚と続いている。           
 このようにして高木家文書中の婚姻関係史料は、ほとんど近世末に集中している。しかしこれらの文書は、婚姻に至るまでの交渉過程、結婚式等の具体的様相、結婚の際に持参する荷物等、近世の武家の婚姻の模様をそのまま伝えており、また高木家の交際状況、婚姻圏等を知る上にも貴重な史料である。           
 養子縁組 ここには、宝永五(一七〇八)年から、明治三(一八七〇)年までに至る間に、高木家の関係した養子縁組についての史料三〇一点が収められている。           
 文書の内容は、養子関係を結ぶ相手方との間で交渉のために書かれた書状、幕府に出された養子の許可を求める願書、幕府よりの養子許可状、祝儀の覚、慶事の規式に関する諸文書、結納品の進上目録、養子縁組が一応終わった段階でまとめた留帳等よりなっている。           
 この中で最も古いものは、北高木家の新左衛門貞康が、宝永五(一七〇八)年に弟の幾次郎充貞を養子にしたいと幕府に願った際の覚書である。西高木家については、安永七(一七七八)年に第九代新兵衛篤貞の四男晴良が、尾張藩士榊原盛綱の養子になった際のものが一番古く、二三点の関連史料がある。天明三(一七八三)年には、篤貞の三男三五郎正幹が幕府御家人一市岡大蔵の養子となっており、関係史料が五八点残っている。天保九(一八三八)年に第一一代経貞が大垣藩主戸田采女正の九男芳之助を養子にしたが、芳之助は安政三(一八五六)年に没した。この関連文書は一一点ある。明治二(一八六九)年には、水口藩主加藤能登守の弟賢次郎が第一二代貞広の養子となった。彼は間もなく没し、成瀬内記五男福之助が再度養子となり第一三代貞正と名乗るのであるが、この養子縁組の成立までには数年を要し、慶応二(一八六六)年に交渉が始まり、明治二年にやっと多良へ引移った。関係文書は一五六点に及んでいる。           
 仏事 ここには、享保二(一七一七)年から、明治四三(一九一〇)年に至るまでの、高木家の関係した葬祭あるいは信仰等にかかわる史料二二二八点が集められている。           
 内容的には大きく三つに分けることができる。一つは、葬祭に関する史料で、その中心をなすのは、西高木家が執行した葬儀、先祖供養、石碑の建立等に関係するものである。この他に、東・北の両高木家で執行した葬儀に関係するもの、高木家の当主と血縁関係を有する人物の死亡に関連したもの、また将軍家および尾張徳川家内の者の死亡に関連して出された穏便触や悔状等がある。           
 二つは、信仰に関係する史料である。仏教の宗旨の変更、東本願寺から西本願寺へといった等の変更等にかかわる史料、伊勢神宮や秋葉山等へ高木家の役人が代参した際の、初穂料の受取や、その旅で要した経費の勘定書等がある。           
 三つは、右とやや趣を異にするものであるが、高木家で行われた婚礼や日光社参の祝儀、あるいは法事等の供物として、高木家が座頭や盲女に金子を与えることがあったが、この際の金子受取書等である。           
 以上の史料は、とくに近世の武家における葬儀のありさまや、それに要した費用、さらには宗派の変化等の委細を伝えており、近世の宗教問題を考える上で貴重なものである。

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『高木家文書目録』巻五


           
 茲に高木家文書目録巻五を刊行できたことは、私たち関係者にとっては、大変喜ばしいところである。本巻は、近世の高木家の財政がどのようになっていたかを示す財政関係の文書、明治以降の高木家の動向に関する文書、それに既刊目録の補遺、および今度新たに神戸公子氏より文学部へ寄贈された旧水野録次郎氏所蔵文書のうちの高木家に関係する文書の目録を収めている。           
 高木家では領地の時・多良両郷の村々から得られる年貢や小物成などを基本的な収入にして、これをもとに支出を見積る帳簿を作っていた。この帳簿が近世中期以降残っているので、高木家の財政の概略を見ることができる。また高木家のように参勤交代を行わねばならない旗本は、江戸にも屋敷を持ち江戸留守居が置かれたが、その財政状況を伝える史料もある。旗本の家の財政を知ることができる史料はほとんどないだけにこれらは貴重なものである。また領内の村々は高木家に対し様々な夫役を負っていたが、その模様を伝える史料も多く残っており、在地領主と領民との関係をつかむことができる。江戸と多良との二重生活、物価の高騰などによって、高木家も他の大名や旗本と同様に財政破綻に陥った。これに対処するために高木家がどのような借財を負ったか、あるいは借金返済のためにかかわった講、さらに領内の売りに出して収入を得ようとした物産などの史料もある。こうした文書が「財政」の中に入っている。           
 幕末からの明治の変革の中で、多くの旗本は没落したが、高木家もこの時期に大きな転換期を迎える。貞広は維新の動乱のさ中京都と多良の間を往復して新政府に工作した結果、士族の身分で旧領地に住むことが許された。貞正は明治九(一八七六)年に第三一番中学区取締助役、翌年に同取締を命ぜられ、また明治一三(一八八〇)年には岐阜県多芸上石津郡長となり、同二六年に退職するまでの間郡内二七箇村の郡政を担った。さらに翌年には衆議院議員となって公的活動を続けた。こうした高木家の動き、およびその当時の経済状況を示す史料などが「明治」の中に入っている。           
 「水野家文書」には、享保五(一七二〇)年頃の日本総絵図作成にかかわる史料や、弘化三(一八四六)年の高木家の系譜作成に関する史料などが含まれている。このように、本巻に収められている史料はいずれも極めて貴重なものである。           
 これらの古文書の整理には、その解読、史料的性格の判断、分類等に多大な労苦を必要とする。高木家文書目録刊行調査室の運営に当てられた運営委員会の委員はもとより、労苦の多い作業を直接担当してきた笹本正治助手および補助員の方々に深甚の謝意を表しておきたい。また本書の解題ももっぱら笹本助手の執筆に成るものである。           
 本学の収集した高木家文書の整理と調査のために、高木家文書調査室が設置されたのは、昭和四六年であった。これは当初五ヵ年計画の予定で発足したが、この種の事業に当然ともなう解読、整理の困難等のために三ヵ年延長され、さらにその産物たる目録の刊行事業を継続するために、前記調査室を高木家文書目録刊行調査室に改め、その後四年を費やして、この巻五をもって一応の区切りをつけることとなった。その間収録した史料ののべ点数は五二、四〇九点に及ぶが、しかしこれによって本学所蔵の高木家文書のすべてを網羅したわけではない。その他なお書状約二二、三〇〇点、日置江(ひきえ)村関係文書二、一〇〇点、絵画習作、雑物六〇〇点を未整理のまま残さざるをえなかった。この文書の整理費用はすべて本学評議会の承認をえて、中央経費から支出されていた。私たちとしては、学長および評議会の御配慮に感謝するともに、その費用支出が余りにも長期にわたることをおそれて、書状および村方文書という多少性格の異なる文書を別扱いとし、他日の整理を期することとした。それが一応の区切りと前述した所以である。もとより、これらの未整理分が続編として刊行されてはじめて本学所蔵の高木家文書目録が完成するわけで、私たちとしてはその日の一日も速やかならんことを祈る次第である。           
 最後に一九七一年の調査事業の発足以来、調査室の事務を負担して、その円滑な運営を実現してきた本学図書館の関係事務職員の労苦と、巻一以来これまで引き続いて刊行費を支出された文部省学術国際局情報図書館課の御配慮にたいして感謝いたしたい。全五巻にわたるこの厖大な目録は、これら多くの関係者の厚意と協力によって生みだされたものであり、私たちとしてはそれが今後多くの関係研究者に十分に利用されることを期待したい。           
 昭和五十七年九月           
  名古屋大学附属図書館長           
        横越 英一  


解題  


一、項目説明  


 本巻には、近世の高木家の財政状態の推移を示す大項目「財政」に分類された史料七、八〇八点と、明治になってからの高木家の動向にかかわる大項目「明治」に分類された史料一、九九七点、それに既刊の目録の補遺一三八点および今度、神戸公子氏より文学部へ寄贈された水野録次郎氏旧蔵文書のうち、高木家に関係のある文書一一三点の、合計一〇、〇五六点の史料が収録されている。           
 二つの大項目は次の九つの中項目からなっている。「財政」のうち、「1、収支」には高木家の収入と支出にかかわる史料三、九四二点、「2、村請支出」には、高木家の領する時・多良両郷の村々が請負った支出についての史料二一二点、「3、借財」には、高木家が他家から借りた金銭や物品に関する史料二、五一六点、「4、留守居方」には、高木家の江戸留守居方の財政についての史料二六九点、「5、物産」には、高木家の領内から産出する品物に関係する史料二六二点、「6、講」には、高木家と関係のあった講についての史料二四一点、「7、その他」には、以上の中項目に入らなかった史料三六六点が、それぞれ集められている。また「明治」「1、国事」には、明治になってから高木家がどのような公職にあったかを示す史料を中心に九〇七点、「2、経営」には、明治期の高木家の財政など生活状況を伝える史料一、〇九〇点が入っている。           
 以上が本巻に該当する中項目の内容規定である。以下、この中項目の下に分類された小項目ごとに、その内容規定とそこに分類した文書の概略を述べることにする。           
 収支見積 ここには、高木家の年貢として得られる米や金、あるいは小物成などからなる収入と、これをもとにしてなされる支出の見積にかかわる史料一一一点が集められている。           
 領民から徴収した金銭や米、物品などのうち、現物として直接支払われるものを除いた残りは、すべて金に換算され、そこから様々な入用金の支出が見積られることになる。この見積は一年分をまとめて支出するものと、月別の支出との二つからなっている。           
 このような年間収支見積と月別入用金見積とを同時に知ることができるのは、延享二(一七四五)年と明和四(一七六七)年の両年分である。その内訳を延享二年の「御物成請払月次御定帳」でみると、収入は定米八九四石八斗七升と幾利山年貢二〇石で、このうち切米・扶持代などの支払いに五七一石二斗一升六合があてられ、残りの三四三石六斗五升四合が金三四三両二分と銀九匁二分四厘に見積られている。一方支出は合わせて金四二八両一分と銀三匁九厘で、合計金五八両二分と銀五匁三分四厘の不足と見積られている。なお月別の入用金見積帳である「月次御定目帳」は、延享三(一七四六)年と、宝暦八(一七五八)年の分が残っている。           
 文政二(一八一九)年以降は、ほぼ連年の収支見積が残っているが、収入は「御収納米壱ヶ年積帳」、支出は「御雑用壱ヶ年月割帳」というように、多くは別帳に仕立てられている。           
 この他に、「年内御入用柴割木調覚」のような、高木家で消費する柴割木の入用見積や、膳米・味噌・溜・大豆・炭・布などの入用見積もここに収められている。           
蔵米収支 ここには、年賀などとして領民から納入させた蔵物の収支、およびその支出にかかわる、元禄一二(一六九九)年より明治四(一八七一)年に至る史料八四八点が分類されている。           
 最も古い帳簿である「御台所算用帳」には、元禄一二年から享保四(一七一九)年までの、一年あるいは半年毎の白米・大豆・小豆の物置における収支決算が記されている。ちなみに蔵に納められた米は、舂屋で精米され、台所で消費されるものは物置へ廻される。また小豆などの雑穀で台所で消費されるものも物置に渡された。           
 正徳二(一七一二)年から寛延元(一七四八)年までの、年間の収支決算を記録したのが「御蔵算用帳」である。また元文五(一七四〇)年から明和四(一七六七)年までは、継続的ながら蔵・舂屋・台所の収支決算に関する文書が残っている。           
 「御蔵御舂屋勘定目録」は、安永四(一七七五)年から文政八(一八二五)年まで、安永五・八年分を除いて四九点ある。天明四(一七八四)年までは舂屋の勘定目録であるが、以後は御蔵勘定目録と御舂屋勘定目録とに分かれ、以前は舂屋から出されていた扶持米が蔵で舂屋渡米と扶持米とに分けられている。蔵からの舂屋渡米・扶持方米・払米などの支出の記録である「蔵米御舂屋扶持方渡覚帳」は、寛政三(一七九一)年から文政八(一八二五)年までの分が残っている。           
 高木家では文政八年に家政改革を行ったが、帳簿の形式もこの頃から変化した。天保三(一八三二)年までの分が残っている「御蔵米納払帳」は、蔵における月別勘定目録であるが、この内容は天保一四年から弘化二(一八四五)年の中断を経て「御蔵米渡方出入覚帳」に引き継がれた。また文政九年から天保一三年まで、連続はしてないが「蔵米渡方覚帳」が残っている。           
 安政四(一八五七)年以降は、台所方関係の帳簿も残っており、月別の台所方における白米の収支記録である「御勘定目録帳」、「上中并糯白米御定式拂方日記」などを見ることができる。           
 さらに蔵米の売買については、天保三(一八三二)年から翌年にかけての大坂への廻米、また嘉永三(一八五〇)年から同七年にかけての蔵米払い下げ関係の史料などがある。           
 金銭収支 この項には、高木家の収入と支出に関する史料二、八二九点が収められている。           
 内容は大きく三つに分けることができる。第一は、基本的な金銭の出入を記録したものである。古いものとしては「金〔銀・銭〕払帳」と題される帳簿が、享保一一(一七二六)年から延享五(一七四八)年まで残っている。これは金銭の支払いの都度金額と用途を記録したものである。受取った金銭と支払いを記した「金銭請〔取〕払〔覚〕帳」は、宝暦元(一七五一)年と同七年の分がある。宝暦一四年から明和四(一七六七)年までの「入用払帳」と「金銭払覚帳」、および明和二年から同五年までの「金銀請取張」、同六・七年の「金銀銭払帳并小請共」は、勘定方の支払い記録である。同様の勘定方記録には、明和八年から文政七(一八二四)年までの「諸御入用金銀銭請払覚帳」があり、この他には村々から納入された金銭を記録した「金銀請取上納覚帳」が、安永二(一七七三)年から天明五(一七八五)年まで残っている。また宝暦一三年から明和六年までの「金銀銭請取渡張」は、年寄の金銭受取と勘定方への渡し方が記録されている。この系統の帳簿は寛政元「金銀銭上納覚帳」に引き継がれ、文政元(一八一八)年まで続く。           
 文政八年の家政改革前後から、金銭収支の帳簿作成は勘定方が一手にひきうけ、帳簿は「金銀取立上納帳」だけになる。これは嘉永六(一八五三)年までの分がほぼ残っている。そしてこの帳簿は万延元(一八六〇)年から明治三(一八七〇)年まで残る「金銀請取上納帳」へとかわる。また文政八年以降の金銭受取の記録である「御払金銀請取帳」は、天保四(一八三三)年から「金銭御請取帳」になって嘉永五年までの分が残っている。逆に支払い記録の「金銀銭渡判取帳」は、文政八年から嘉永七年までの分がある。安政四(一八五七)年からは受取と支払いの両方を記した「金銀銭取立上納帳」が残っているが、万延元年から受取分は「金銀御請取帳」に記されるようになる。両帳とも明治三年分まで残っている。           
 第二は、高木家に出入りする商人の通帳類である。酒・茶・蝋燭などの日用品の通帳、宿や飛脚の通帳といった雑多な通帳がここに集められている。           
 第三は、特別な出来事に対する金銀の支払いや受取についての記録である。たとえば高木家の役人が公用で出張した際の金銭出入を勘定した帳簿、あるいは勝手方の役人が入用金の下げ渡しを願った願書、さらに諸方よりの金銭受取などがある。           
 蔵物収支 ここには、文化元(一八〇四)年以降の、小物成として蔵に収納された品々の収支にかかわる史料一五四点が分類されている。           
 内容は大きく二つに分けられる。一つは、大麦・小麦・懸茶など、小物成として蔵に納められた品々の蔵における収支に関するものである。ただし基本的な帳簿は「蔵米収支」の項に入っているので、ここでは除かれている。そのため文書は大麦などの蔵出し届や払い下げ代金の勘定書・受取書が中心をなしている。           
 二つは、台所方における味噌・溜・油・炭・柴・割木などの収支についての史料である。炭・薪・油の収支を記した「炭薪油請取払覚帳」は、元治元(一八六四)年から明治二(一八六九)年までのものがある。また台所から各所へ支出された諸品の覚もある。この他に、造酒用の米の請払い、奥へ渡した酒の覚や、高木家が日常用いた諸品の記録などがここに入っている。           
 村請支出 この項目には、高木家が領地の時・多良両郷の村々に割当てた奉公人や人足、あるいは雇職人の扶持米、作料およびその村請支出に関する、寛保元(一七四一)年から明治二(一八六九)年に至る史料二一二点が集められている。           
 史料の内容は大きく四つに分けることができる。一つは、「御徒士格御足軽御武先別雇御茶之間雇時多良人足役馬木樵薪附馬出帳」・「御武先別雇御扶持方控帳」などの、高木家が村々から撤廃した人足に対する扶持についてのものである。徒士格や足軽については、氏名と出勤日数、給米と扶持米が算出されている。武先は各人について地廻りと遠行があり、それぞれに使われた頻度が人数で記され雇料銀と代米、扶持が算出されている。なお遠行は、名古屋や高田などへの遠出の人足であり、地廻りは、餅つきや庭番のかわりなど高木家の屋敷廻りでの雑役である。御茶之間雇には女性が雇われており、小間使のように使われたものと考えられる。人足役馬や木樵薪附馬出の項は、村ごとに人足・出入・木樵人足・役馬・木付役場などに分けて、それぞれの人数・疋数・その扶持(人馬とも七合五匁ずつ)を記している。           
 二つは、「諸職人御雇日記」・「諸職人年内雇其外品々御書出帳」といった表題を持つもので、主として高木家の屋敷の造作や修理のために、大工・木挽・瓦屋・左官などを雇った際の帳簿である。これらの職人の作料は米に換算されて村々に割当てられている。           
 三つは、「御勘定目録尻書上帳」のように前記の二項目に従って割当てられた米の量を、村ごとにまとめて計算した帳面類である。           
 四つは、「御領分時多良川除御入用并ニ諸職人其外品々御書出シ帳」といった表題を持つ帳簿で、村ごとに川除普請のための諸経費(人足の扶持米も含む)、御役人馬や武先・足軽・中間などの扶持米、諸職人賃金、融通講の戻し金などが米によって算出されている。この帳簿は前途の三種の帳簿を直した総合的なもので、村請支出の概観を知るのに最も都合がよく、時期的にも文化一二(一八一五)年から明治元(一八六八)年に至る約五〇年間分が残っている。           
 借財 この項には、享保元(一七一六)年以降の、高木家の借財にかかわる史料二、二九〇点が集められている。           
 文書は借用金証文、金子の受取書、借金依頼についての往復書状、借金の返納あるいは利息金納入の延期などについての書類、一件の借用金について整理した帳簿類など、およそ借財に関するすべてのものを含んでいる。           
 特に史料点数の多いのは、天保一〇(一八三九)年七月に、高木家が江州志賀谷御用所から紀州名目金五〇〇両を、領内の百姓の所持する田畑・作徳米などを抵当にして借りた際の証文である。結局高木家は、この借金を返済することができず、百姓に返済の義務が生じたことがもとになって、弘化二(一八四五)年七月には多良九ヶ村の一揆となった。また天保一二(一八四一)年には、栗田御殿名目金を借用している。この借金返済については明治一一(一八七八)年までの史料が残っている。           
 高木家の借財をトータルに把握できる史料として「借財仕訳帳」があるが、これは天保二(一八三一)年・三年・四年・九年・一二年・一四年・弘化元(一八四四)年・二年・四年・嘉永二(一八四八)年・四年・五年・六年・安政二(一八五五)年・三年・五年・万延元(一八六〇)年・文久三(一八六三)年のものが残っている。この帳簿には、借入先別に借入金高・利息・返済条件・当該年次の返済分が記されている。天保四(一八三三)年の場合を見ると、尾州小納戸金・尾州市ヶ谷金・尾州寺社金・信楽役所金などの大口で長期返済のものが一グループにされ、あわせて約二、六五〇両となっている。つぎに年内返済を条件にする当座口として、調達講割戻し金、時・多良村々調達金、領内の住人などから借入れた金額が約七九〇両ある。この他に諸職人や諸商店への支払い残金三六〇両が付記されており、総合計すると三、八〇〇両近くの借金となる。ちなみに各年次の借金高を見ると、天保九(一八三八)年が四、五〇〇両余、同一二年が約六、四五〇両、弘化二(一八四五)年が約八、〇〇〇両、安政二(一八五五)年が約五、四〇〇両、同五年が約五、五〇〇両、万延元(一八六〇)年が約四、五〇〇両というように、高木家は実に巨額の借金をかかえこんでいた。           
 調達金 ここには、高木家が必要とした金子をどのようにして調達したかを示す史料一七六点が分類されている。           
 史料の年代は、貞享五(一六八八)年から安永五(一七七六)年までの間に一九点、残りは天保二(一八三一)年以降明治三(一八七〇)年までのものである。文書は借用金受取書、元利年賦証文、調達金についての約定書、調達金の勘定書などからなっている。           
 延享二(一七四六)年付の三輪三郎左衛門の「御用金元利書出シ日記」によれば、彼は合計四六両一〇匁五分を用立てている。翌年付の中西庄六の「御用金御指引帳」では、庄六が前年の一二月から一年間で、現金二一三両、米を七一石用立てたことが知られる。この返済は「御小穀代」で二五両、「時多良次金」で一〇二両余、「御直ニ金ニ而」四〇両、大豆八斗で、八五両余の未返済となっている。なお庄六は時郷下村の人で、全国各地にわたって広く茶の販売を行っていた。           
 明和八(一七七一)年正月付の「年賦金証文留帳」によると、大嶽弥部右衛門より五一両、三輪代右衛門より五八両三分余、正林寺のとりつぎにより多芸郡宇田村大通寺から二三両を調達させている。これらの金子は一割の利息をつけて一〇年から一一年で返済することになっていた。この大嶽と三輪は高木家の家臣であり、正林寺は高木家が建立した寺である。同年には同じく家臣の三輪数右衛門からも七九両を調達させたが、この返済は長い間なされなかったようで、天明元(一七八一)年には返済が要請されている。           
 安永五(一七七六)年には、猪尻村の三輪治兵衛に対し、調達金六五〇両の返済のために扶持米一石八斗ずつが渡されることになった。「天保十三寅年十二月迄時多(良脱カ)郷領分掛り調達金書出シ」は、領内からの調達金を書き上げたものであるが、これによると七五〇両余が調達されている。この他に、天保一〇(一八三九)年には江州熊野村の宗友荘左衛門が四六両を用立てている。また下って嘉永元(一八四八)年には時郷から二七五両、多良郷から一〇〇両を調達させている。           
 嘉永三年とその翌年には、「御武用御手当金」の名目で、それぞれ一五両ずつの調達が幾利山の「山子」に命ぜられた。また嘉永七年には、時郷の村々が調達金を捻出するために山を売払おうとして、領内で騒動がおきている。           
 その他 ここには、中項目「借財」のうちで前記二つの小項目に入らない、享保三(一七一八)年から明治三(一八七〇)年に至る史料五〇点が収録されている。           
 文書は、高木家が他家へ金子などを貸付けた際の証文、利息金の上納書、借用金返済証文、貸付の覚書、さらに高木家が他家より借用した際の証文などからなっている。           
 内容の中心をなすのは貸付金であるが、享保三年には馬瀬村の林右衛門へ二両二分を貸している。明和二(一七六五)年には三輪一郎左衛門へ米一石二斗、堂之上村権九郎へ一分一〇匁を、下った文政一一(一八二八)年には上野村弥八へ四両、天保三(一八三二)年には城野浅右衛門へ一五両、安政六(一八五九)年には堂之上村庄屋井口治右衛門へ四両などというように、それぞれ貸付けている。明治になると貸付金の金額が大きくなり、 明治元(一八六八)年には大嶽民平へ一二両、同二年には最上駿河守へ一二〇両、同三年には平塚忠四郎へ五両、佐竹篤次郎へ三両を貸付けている。しかしこのように貸付金は借入金から比較するとはるかに少ない。また貸付先は領内の住人および高木家の家臣が多い。           
 右に関連して金子の貸付を求める願書がある。天保一〇(一八三九)年には、寺島茂十郎が六九両三分の借用金を、未年の七月には時山村の浅右衛門が拝借金を願っている。           
 この他に、高木家に対し借り入れた金の返済延期を求めるような史料もある。           
 逆に高木家に貸付けた金子の返済を求める文書もあり、未年七月には上原村の嘉作が亡父七郎平の貸付けた金子について請求を行っている。なお彼は酉年九月にも同様の願書を出している。           
 留守居方 高木家では江戸に一名の留守居方役人を常駐させていたが、ここにはその江戸留守居の財政にかかわる史料二六四点が集められている。           
 史料の内容は大きく三つに分けることができる。一つは、高木家より江戸留守居への送金に関するものであり、送金の際の書類をまとめた「江戸下金覚帳」は、安永九(一七八〇)年から弘化二(一八四五)年までのものが、断簡を含めて一九冊残っている。ちなみに安永九年では二月六日から一二月二五日までに七八両二分、天明二(一七八二)年には、高木家の江戸参府があったこともあって、二月八日から一二月二五日までの間に二七六両二分が送られている。この他に送金の受取書などもここに含まれる。           
 二つは、江戸への廻米にかかわる史料で、蔵米や炭などの送状が二二点、その送達についてやりとりされた書状が二四点、その他廻米の受取書などがある。これらの廻米は江戸留守居の扶持米として送られていたようである。           
 三つは、江戸留守居の側で要した金銭の勘定帳の類である。江戸留守居の全体的な支出状況がわかるのは、「江戸勘定目六」・「江戸入用金請取帳」・「御留守居方定用臨時御勘定仕上帳」などであるが、これらは明和元(一七六四)年から慶応三(一八六七)年に至るまでのものが、ほぼ完全に残っている。記載は月ごとになされ、買物の内訳などが詳しく示され、江戸留守居の生活をしのばせる。特別な出来事の支払いには別帳がつくられた。この中で最も古いのは寛保元(一七四一)年の江戸辻番所修覆料についての書付であるが、他に江戸参府や江戸屋敷の修復などにかかわるものがある。また「御日雇賃銭請取帳」や辻番給金の受取書、扶持米の受取書などもここに含まれている           
 取引 この小項目には、高木家領内の産物取引にかかる史料二二三点が集められている。取引は主として、高木家の財政窮乏に対処するため、領内の産物を売ることによって財政の補填をしようという意図でなされたものである。           
 領内の産物を一覧できる史料としては、寛政八(一七九六)年の「濃陽多良産物記」、嘉永二(一八四九)年の「時多良産物凡見積覚」、同五年の「時多良産物類凡見積覚書」がある。最後のものは「大坂天満樋ノ上町大根屋孫七江産物方より手覚差送り候扣」で、これには真綿・時山炭・白炭黒炭・刈安・紙木・雁皮・茶など二〇種類、約八〇〇両の見積りがされている。史料の中に実際に出てくる頻度が高い品目は炭で、二〇点の史料があり、ついで松茸・茶・紙・焔硝・刈安といった順序になる。これらの産物の大坂への廻送は天保三(一八三二)年頃から始まったようで、産物の取扱い請書を大岡藤二・木村与八郎から取った上、同年閏一一月に茶・刈安・炭・岩茸・薬種などを売って、一八両三分三朱の利益を得ている。こうした産物は大坂だけでなく、天保八年に京都の十一屋などに毎年炭を送ることを決めているように、京都でも売り捌かれた。           
 高木家領内の産物売り捌き委任に際しては、高木家から扶持米が与えられたが、この扶持に関する史料もここに入っている。たとえば弘化三(一八四六)年には三木屋利兵衛・助松屋利兵衛・加賀屋喜三郎に産物売買を委任したが、この手当として三木屋へ三人扶持、他の二人へはそれぞれ一人扶持が与えられた。           
 こうした産物取扱い交渉のために、高木家の家臣が大坂や京都など出張することがあったが、その際の費用の帳簿や日記などもこの項に入っている。高木家ではこのように京都や大坂への産物販売に努力したものの、産物廻送は順調には行かなかったようで、収入も思うように入ってこなかった。           
 なお右の他に、高木家よりの大坂廻米に関する史料七点や、弘化四(一八四七)年の市之瀬村銀鉱山試掘などの鉱山開発にかかわる史料もここに含まれている。           
酒造株 ここには、寛保元(一七四一)年から嘉永七(一八五四)年に至る間の、酒造株に関する史料三九点が収録されている。内容は酒造株の譲渡に関する史料が三九点が収録されている。内容は酒造株の譲渡に関するもの六点、酒造株の免許に関するもの五点、酒造の休株に関するもの四点、酒造株の覚書九点などからなっている。           
 これらの史料によって領内の酒造の状況を見ると、元来高木家は三〇石の酒株を持っていたようである。享保一五(一七三〇)年一一月には、それまで領内北脇村の源助に預けてあった分のうち、一五石の株で酒造したいと井之尻村孫次郎が申し出たので許可したが、寛保元(一七四一)年に仕事を止めたので株を返却させた。宝暦元(一七五一)年一二月には、北脇村の孫助が一五石分の酒造免許を願い出て許され、天明五(一七八六)年まで株を持ち続けた。しかし実際には孫助は酒造していなかったようで、天明五年に高木家が幕府へ提出した覚には、酒造高休株は三〇石となっている。その後、文化年中(一八〇四~一八)に米穀が下値になった際、幕府から諸国一統に酒株のない者も酒造をするようにという触があったので、文化四年には時郷中村の庄屋留右衛門の三男紋治が酒造方法を知っているということから、別家に取り立てて酒株三〇石を免許した。文政八(一八二五)年には時郷細野村三輪円八が酒造を願い出たため、紋治に許した三〇石のうちから一五石分を分け与えた。しかしその後再び休株ができたようで、天保四(一八三三)年には長松村の者が高木家の酒株のうち六石分を払い下げてくれるようにと願い出て許されている。           
  ここには、高木家のかかわった講に関係する史料二四一点が分類されている。内容は、講の掛金の受取書および受取帳が最も多く四二点ある。つづいて講の仕法書が四〇点、講開催にかかわる廻状三九点、講の会計についての書類三七点、頼母子手帳二六点などからなっている。           
 講は高木家が借用金返済などの家計やりくりのために始めたものが多い。天保二(一八三一)年の持寄融通講は西高木家を講元にして、柏原宿の吉村左八郎と松浦久作、三木金右衛門が世話方となった。講会は一年に二度、八年一六会で満講となった。総口数は一三六口、一会につき一口二両の掛金で、参加者は西高木家家臣、西高木家役所、東高木家役所、領内の寺院、村役人、村、組、大垣や高田などの出入商人、西高木家の親類などからなっていた。天保一三(一八四二)年には、「御手元御融通ニ付」ということで西高木家が講を結んでいる。三月一五付の「御講仕法帳」によると、この講は一年一会、一〇年満講であった。落札の額は一会につき一〇両で、枕金として一会につき一両を講元が得た。講に参加したのは北高木家役所、高木三家の家臣、足軽格、徒士格、時多良両郷の寺院、村役人、百姓などで、口数は一二九口と四分の一であった。これによって高木家は四五両三分二朱の利益を得ている。           
 また高木家に特別な出費がある場合に結ばれた講もある。たとえば安政四(一八五七)年には、江戸屋敷普請入用のために時郷村々に講を結ばせた。高木家ではこの返済のために、年貢五石を掛銀とした。           
 当然、広く一般に見られる日常生活用、あるいは非常用の講や無尽にかかわる史料もある。そしてこれらは、高木家が講元ではないが、加入していたために残った史料である。           
 御出入方扶持 この項には、一般の家臣に対する扶持とは違って、高木家の借用金や調達金、財政再建などにかかわって与えられた扶持に関する、天明五(一七八五)年から明治元(一八六八)年に至る史料一六八点が集められている。           
 扶持支給の理由から史料を分けると、第一に、借用金・調達金の返済にあてるために扶持を与える場合がある。たとえば、天明五年四月には、柏原宿の三輪伊右衛門など四人に対し、宝暦一〇(一七六〇)年に借入れた七〇〇両の利息のために、五人扶持として米九石を元金返済まで支給することにした。また嘉永二(一八四九)年一二月には、八〇両を調達した用達商人の高田町俵屋七太夫に、二人扶持を調達金返済まで支給することになった。彼からは嘉永七年閏七月にも調達金を受けたので、扶持方一人六分を追加している。さらに嘉永六年一二月にも、二七両を調達した高田町中野屋長次に対し、一石六斗の扶持米を与えている。           
 第二は、高木家の財政再建にかかわった者へ「御勝手向御世話」の手当として扶持を支給するもので、この項の中では最も史料点数が多い。すなわち、天保七(一八三六)年五月には京都大津屋北村宗兵衛、嘉永二(一八四九)年九月には京都亀屋日比野文助へ、用達の手当として扶持が支給されている。特に嘉永四年一〇月には、大坂への廻米および高木家領の産物捌きにかかわった多くの用達商人に扶持が与えられた。そして蔵元を命じた摂州兎原郡東明村の加藤庄左衛門には一三人扶持を、大坂東堀具足屋町佐野作兵衛、大坂天満堀川端飯田陸蔵にはそれぞれ五人扶持、大坂河野忠蔵に三人扶持、高田町佐竹重兵衛および在所不明の渋谷七郎左衛門、大矢幸助、津田吉兵衛にはそれぞれ二人扶持が支給されることになった。           
 第三は、扶持米の支給理由は明らかでないが、高木家の財政に関係して扶持米を支給されたと思われるものである。たとえば、弘化四(一八四七)年には「格別之依頼趣意」西川佐助に三人扶持と炭一〇俵、久米三郎に二人扶持を贈っている。また文久二(一八六二)年一二月には谷江時太に「従来出入訳柄ニ付」一人扶持が与えられた。           
 右の扶持受給者は、全体では五二名に達する。居処の判明する者の中には、京都の五人、山城伏見の四人、大坂への三人などがおり、領内産物の京都・大坂方面への売出しで財政再建をはかった際に支給されたものが多いと考えられる。また地元では、高田・柏原・名古屋などの住人がある。           
 その他 ここには、財政にかかわる史料のうちで、既述の小項目に入らない、享保一六(一七三一)年から明治元(一八六八)年に至るまでの一九八点が集められている。           
 内容は大きく二つに分けることができる。一つは、種々の雑用金に関するものである。この中には、将軍宣下の祝儀として座頭へ渡す配当金、六代貞則の子の霊鸞院が、延享二(一七四五)に名古屋へ隠居所を建てた際の勘定書、払馬の勘定書、人夫の付留帳などのように、高木家の諸支払いに関するものがある。また高木家の収入については、「村々御定納米并諸色仕払帳」や、延享元(一七四四)年から宝暦一三(一七六三)年までの、越前勝山から輿入れした九代新兵衛篤貞の妻の合力代金、あるいは高木家の具足や刀剣の払い下げにかかわる史料などがある。さらに元治元(一八六四)年に高木三家の領内の庄屋が差し出した金札発行の願書などもここに入っている。           
 二つは、高木家の財政再建にかかわるものである。この中には高木家の倹約定や勝手向仕法書、高木家が家臣および領内の者に申渡した際の書類が多い。これに対する領内の者よりの請書、あるいは高木家家臣からの財政再建のための扶持減少請書、半給についての書状などもある。こうした財政再建策と同時に、領内からは上納金を出させたので、弘化四(一八四七)年の「御改革ニ付多良九ヶ村御上納金覚帳」が残っている。また高木家の勝手向のとりはからいや、調達金を依頼した史料も多く、嘉永七(一八五四)年閏七月には桑名の山内重左衛門が勝手向仕法委任に対する請書を出し、安政二(一八五五)年には津島神領の坪内源蔵も同様の請書を提出している。さらに米の売却にかかわる史料も若干ここに入っている。           
 新政出仕 この項には、明治になってから高木家が新政府とどのようなかかわりを持ったかを伝える史料三一七点が集められている。           
 本項目の内容は大きく二つに分けられる。一つは、明治元(一八六八)年から同一五年までの間に発布された、太政官布告や笠松県裁判所からの布告などの写や留帳、さらにそうした布告を高木家が領内の者達に通達した際の触状の類である。また当時の新聞や風説書などもここに収められている。           
 二つは、明治維新という大きな政治変革の中で、高木家がどのような動きをとり、新政府といかにかかわったかを伝える史料である。これらの史料から幕末~明治期の高木家の動向を見ると、高木三家の当主は慶応四(一八六八)年二月四日大垣に着陣した東山道鎮撫総督岩倉具定に拝謁した。そして二月八日には多良を発ち、一〇日に京都に着いて、京着の届書・参内の日取の伺書・高木家の格式についての願書の三通を太政官に提出した。一六日に参内が済み、二三日には勝地峠警固のための暇を乞い、許可されて二七日に多良へ帰った。五月に政府は高家・交代寄合・寄合について調べ、元高塚・元交代寄合を中大夫と改めて職制を定めたので、高木家も本領安堵の運動をすることを決め、七月五日に再度多良を発して、七日に京都妙心寺内浄寿院に入り、同席の者同様に朱印を得て相応の御用を勤めたいと、太政官弁事に願書を提出した。八月二日になって弁事役所から、知行高・年令・席順などについて書き上げるよう指示があり、高木家では五日に返答書を出した。その後何の連絡も無かったので、一〇月一一日再び願書を提出したところ九月付で呼び出され取調べがなされた上、一一月二三日に至り本領安堵状と中大夫席の辞令が渡された。中大夫には東京定府が申し付けられていたが、高木弾正は猶予を願い出た。翌明治二年正月五日、高木家の先祖が仕えた高倉院の廟所を修復し、在京して永世その警固に当たることを願い出たが、弁事役所はこれを許さなかった。同二七日、弾正は軍資金二三両を上納し、以後五月二七日、九月二九日にも同額を納めた。二月五日、三家は連名で勝地峠の警固解除を求め、一四日に東京定府免除の歎願を行ったところ、京都移住を命ぜられた。三月二四日養子引取を理由に五〇日間の暇を願い、四月に帰館した上で、五月一七日に、病気による上京猶予額を提出した。その後七月二四日に上京、八月二二日に弾正を広と改名することを願い許可された。一二月二日禄制の制定により中大夫の称が廃止されるにともない、高木家も士族となって知行地は上地され、以後稟米を与えられることになった。その後は、同月一八日に家中に動揺があるので鎮めたいとして、五〇日の暇を留守居宮伝達所に乞い、多良に帰った。翌年三月一二日に再び上京、四月七日には住所の確定を願い、ニ一日に旧領地に住むことが許され、六月二日に多良へ向った。こうして高木家は、長期にわたる京都での工作にもかかわらず、官職を得ることができなかった。またこの間に、旧来の川筋支配についても願い出たが、何の沙汰も無かった。しかし士族として旧領地に居住して、当分稟米を得るという地位だけは確保したのである。           
 学区取締 明治五(一八七二)年八月学制が発布されたが、同九年八月二日、高木貞正は第三一番中学区取締助役に任ぜられ、翌年四月二日には同取締を命ぜられて、明治一二年二月に郡長になるまでの間この役職にあった。また、明治一八年から大正初年まで、多芸上石津教育委員会頭の要職を勤めた。このように貞正がかかわった教育についての史料二三三点がこの項に収められている。           
 史料内容は大きく三つに分けられる。一つは、高木家が中心となって創設した学校に関するものである。学制発布の年の一二月、多良宮村二番高木貞栄(北高木家)邸の一部を利用して、基業舎が設けられた。翌年これを基業小学校と改称し、同時に袮宜村三番地正林寺内に分校の有隣舎が設置された。こうした学校設立ための寄附金、生徒数、教員などについての史料がある。           
 二つは、学区取締役あるいは同取締を勤めていた時期のものである。役職の上に立って、取締郡内各学校と、勘定簿検閲や諸調査などにかかわる連絡や通達を行ったが、この際に書かれたものが多い。           
 三つは、多芸上石津教育会頭時代の史料である。役職のかかわりのために出した養老郡教育委員会関係の書類や、教育会の歳入に関する文書がある。           
 郡長 高木貞正は明治一三(一八八〇)年二月二五日に、岐阜県多芸上石津郡長に任ぜられ、同二六年一二月二一日に退職するまでの間、郡内二七箇村の郡政を担った。この項には、郡長としての貞正にかかわる史料二九六点が集められている。           
 近代的統治制度の確立とともに、公私の区別ができてきたために、貞正は長年郡長の役職にもあったにもかかわらず、ここに収められた史料は系統性に乏しく、また真に公的なものは少ない。こうした中で、目につくのは次のようなものである。           
 明治一三年、貞正は当時の岐阜県令小崎利準などとはかつて、養老公園の開設に尽力した。工事は一月に開始され、一〇月に竣功したが、この公園の開設の際、および公園に著名人が来訪する際にとり交わされた書状や書類がある。           
 美濃国は古来より木曽三川による洪水があり、近世には高木家がその治水にあたっていたが、貞正が郡長の職にあった時期にも、明治一七年、同一八年、同二一年などに洪水があり、郡内に被害が生じた。こうした洪水に対処するための通達書や書状にも残っている。           
 貞正は郡長着任以前に学区取締をしており、郡長になってからも郡内の各学校とは深い関係を保っていた。また郡長としても、開校式に祝詞を述べるなどの役割があり、学校と連絡をとらねばならなかった。そのために学校と貞正の間に取り交された書状・書類がある。           
 明治二六年の郡長退職の際の辞職願書、および辞職にあたって友人達が貞正に贈った送別の歌など、辞職に関する史料の一部も残存している。           
 右の他にも、郡長としてのつきあいにかかわる文書、郡長として公務にある者に通達した書類、種々の公的行事に参加した際の文書、休暇や病気の届けなどがここに入っている。           
 その他 明治以降において、西高木家が果した公的な役割のうち、学区取締と郡長以外の職務に関する史料六一点がこの項に収められている。主として貞正が諸団体の役職にあった時期のものであるが、それぞれについて系統的に史料が残っているわけではなく、断片的なものが多い。以下、主なものをとりあげる。           
 明治七(一八七四)年八月、高木貞正は三条西季知が祭主大教正として組織した神風講の、第二七四番社長に任命された。このことに関連する史料は五点ある。           
 明治一五年に貞正は、保晃会岐阜県下第二部の委員を勤めている。この会は同一二年に安生順四郎などが発起して、内務省の認可を得て成立した団体で、日光山祠堂の壮観と名勝を保存するための募金活動を行った。岐阜県第二部は、不破・安八・上下石津・多芸・海西の諸郡を担当するものであったので、これらの地域で募金に応じた人の名簿や銀行払込の書類が残っている。           
 また、貞正が農会に関係していたことを示す史料として、明治五年および翌年の大日本農会岐阜大会の例会通知がある。なお同年付の養老郡農会の払込の書類が残っている。           
 この他に、貞正は多芸輪中水利士功会の議長を勤めていたので、この関係の史料が三点ある。なおこの会にかかわるものは、前項の中にも散見される。また明治二一(一八八八)年から約六年間、濃飛私立衛生会の地方委員を勤めたが、その関連史料もある。さらに同二七年の第三回総選挙で、貞正は衆議院議員に当選したが、これに伴って上京するに際しての通知下書もこの項に入っている。           
 家計 この項目には、版籍奉還以後の高木家の家政経済の状況を示す史料六七一点が分類されている。史料は年代順に並べてあるが、内容は大きく次の六つに分けることができる。           
 一つは、高木家の金銭収支を示す出納簿類である。表題は統一されてないが、明治六(一八七三)年から同三九年までの分が残っている。なおこれらとは別に、「高田寓所会計出納簿」が明治一二年から同二〇年まで、「押越寓所出納簿」が明治二一年から同二七年まで、おのおのの別に残っている。この期間は高木貞正が部長を勤めていた時期と一致している。           
 二つは、金子の貸借証文類である。そのほとんど借金関係であって、幕末の貸借関係もそのまま継続していることを伝えている。明治初期の借金証文はほとんどみられず、明治二五年以降に増加する。とくに証文が多く残っているのは明治三四年と同四二年である。           
 三つは、日常用品を中心とした諸物品購入に際しての請求書、領収書の類である。           
 四つは、家禄税・地方税・所得税などの領収書や所得申告書などの、所得・税金関係の書類である。ちなみに明治二七(一八九四)年四月三〇日には、九四〇円余の所得申告がなされているが、内訳は額面二〇〇〇円の整理公債証書の利息一〇〇円、衆議院議員歳費八〇〇円、地所所得四〇円である。翌年の申告は八五七円余であるが、その内訳は軍事公債証書額面一五〇〇円の利息五九円余と、地所所得七九八円余である。地所所得の大部分は五町一反の山林から、松一〇〇本と杉四〇〇本を伐採して得たもので、議員歳入の減少した分を持株の伐採で補っている。           
 五つは、贈物や交際の費用、さらに病気や旅行、館の修復といった特別出費に関する書類である。           
 六つは、雇人に関するもので、足軽他の雇人足賃をまとめた帳簿や明治八(一八七五)年の「表御書院跡并集義館前開発」の際の人足名前付留帳などからなっている。           
 農業 この項目には、明治以降の高木家の農業あるいは林業経営にかかわる史料二八八点が分類されている。           
 まず、明治四(一八七一)年から同四五年に至るまでの史料から農業経営についてみると、田畑売買証文が二九通ある。このうち高木家の購入にかかるものは一一通で、買取った田畑の面積合計は一町二反六畝一一歩になる。これは高木家の高木家の所得申告書のうち明治二七・二八年の田畑貸付面積にほぼ合致する。なお小作米受取に関する帳簿は、明治一四・一六・一七・三八年のものがそれぞれ残っている。           
 高木家で消費する野菜類の収穫を記録した帳簿としては、明治五・六年の「おしゃ(ママ)ゑんもの」、同七・八年の「御境内野菜并菓類等」、同九年の「屋敷収護(ママ)記」がある。これらの野菜は雇人を使って手作していたようである。           
 高木家は明治二七・二八年段階で、一町二反二畝六歩の畑で桑を収穫したと申告しているが、桑の栽培に関する史料は一三点ある。また養蚕については、明治二三(一八九〇)年付の、天気・気温・湿度・給桑時刻・桑目方を記した「日記」、一月から六月までの出費をまとめた「養蚕用諸入費記入帳」、蚕種の引渡し先と員数が記された「蚕種遣シおほヘ」がある。           
 茶に関する史料は二五点あり、その大部分が生茶の売渡しを記録した帳簿である。たとえば明治一一(一八七八)年に、高木家は三井物産会社に二七貫九二〇目を五両六五銭六厘で売渡している。この他に茶摘みの手間賃を記した帳簿などがある。           
 次に林業関係の史料は、明治二年から大正二(一九一三)年までの分が残っているが、明治期の高木家の山林所有面積をトータルに知りうる史料はない。しかし高木家の居住した土地柄、林業は同家の家計の重要な柱であっただけに史料は多い。その中で最も点数の多いのは、幾利山に関するもので三七点ある。その内容は主として材木の払い下げについてである。これ以外の林の払い下げについての史料も三五点ある。この他に山林や材木の払い下げについての史料も三五点ある。この他に山林や材木の入札関係の書類が三〇点、この入札にかかわると思われる木数の調帳が二五冊残っている。また、時郷の炭は有名であったが、この炭を京都まで輸送するに際しての史料が一三点、さらに高木家が贈物に使った松茸に関する史料や山林の地券などもここに入っている。           
 日記 ここには、明治以降の高木家の日記三七点が収録されている。日記の年記は明治五(一八七二)年から大正一三(一九二四)年までの約五〇年間にわたる。しかしながら、日記はこの間の分が連続して残っているわけではなく、明治六年一一月一一日より同七年一二月晦日までの約一年分と、同四二年一月一日より大正二(一九一三)年二月一一日までの約五年分については欠けている。           
 日記の内容は大きく二つに分けることができる。一つは、高木家の家臣が、高木家の当主の動向、家の出来事、日常生活の様子、来客などの状況を事細かに記したものである。これは前代の御用日記の系譜を引くものであるが、明治前期の分だけしか残っていない。           
 二つは、高木貞正の筆になる日記である。彼は明治一二年から同二六年まで郡長を勤め、翌年には衆議院議員となるなどの公的活動を行った。このため彼の日記は公人としての自身の行動を細記しているので、当時の地方政治家の活動の様子を知ることができる。           
 その他 この項目には、高木家の明治以降の経営に関する史料のうちで、前記三つの小項目に分類することのできなかった史料九四点が集められている。           
 内容は大きく三つに分けることができる。一つは、高木貞正が株主や監査役として関与した大垣共立銀行・大垣貯蓄銀行などの銀行にかかわるものである。史料は利益金分配案・株主総会の通知・取締役会議案・予算書などからなっており、銀行の業務を知らせるものが多い。           
 二つは、貞正のかかわりを持った会社に関する書類、および高木家の財政再建にかかわる史料である。これらの史料は系統性に欠け、相互の関連も少ない。彼がかかわった会社としては、多芸郡島田村の濃陽会社、養老鉄道株式会社などがあった。また高木家の財政再建として注目されるのは、明治六(一八七三)年六日付の「御屋敷御主法之覚」である。これを提出したのは尾張藩石河家領一之瀬村の庄屋で、幕末以来借用金の口入などを通して高木家とつながりを持っていた桑原応助である。この中で彼は、屋敷の縮少と不用な建物の払い下げ、およびそれによって生じた空閑地に茶や桑を植え付けることなどによって、家計を維持することを具申し、高木家の者の生活上の心得などについても触れている。           
 三つは、右以外の史料である。大橋利七が出した紅茶炭会社設立についての願書、岐阜県庁が高木福之助を呼び出した呼出状、天保銅貨徴収についての通知など、雑多なものである。

水野家文書  ここには、神戸公子氏より名古屋大学文学部に寄贈された、御尊父水野録次郎氏の収集文書のうち、高木家にかかわる史料一一三点が収録されている。           
 水野録次郎氏は、春日井市立図書館長・文化財保護委員などを勤めた郷土文化の研究家で、収集家でもあった。氏は明治三〇(一八九七)年に西春日井郡六郷村(現名古屋市北区大曽根)に生まれた。生家は肥料問屋であったが、乾物問屋(玉野屋)を営み、瀬戸電鉄の社長にもなった伯父水野鋼次郎氏の養子となって家業を継いだ。他方で、郷土文化に関心を持ち、資料の収集と研究を行った。録次郎氏の関心は多方面に及んだが、主なものは絵草紙・短歌・俳句・寺の過去帳・縁起・江戸期の柄鏡(拓本)などであり、その研究の成果は『尾張の遺跡や遺物』や『生生すごろく』(一九七八年刊、水野夢次郎のペンネーム)に著わされている。氏の収集品の大半は名古屋空襲によって焼失したが、戦後、絵草紙三九八種一、五三四冊が鶴舞図書館に納められた。一九七九年九月二九日に亡くなられた後、遺族によって絵草紙・郷土研究資料など約二、〇〇〇冊が春日井市立図書館に寄贈された。なおこの他、約四、〇〇〇点の短冊や拓本類などが残されている。           
 名古屋大学文学部に寄贈されたのは、水野氏が古書店から購入した古文書である。その概容は、本目録に収録した高木家関係の文書一一三点のほか、鳴海の酒屋下郷家(屋号、千代倉)の田地証文類を中心とする文書五二九点、幕末の尾張藩の重臣による江戸と名古屋の往復書簡を中心とする文書三〇六点、北区如意の端応寺関係文書七点などで、総計は一、二二五点である。           
 高木家関係文書の内容は大きく四つに分けることができる。一つは、美濃国笙ヶ嶽より信濃国浅間山・駒ヶ岳などを見通し見分した際の史料で六一点ある。この見分が行われたのは享保五(一七二〇)年頃で、「日本総絵図」作成のための作業であった。この絵図は享保四年に建部賢弘に命じ、各国左右中三ヶ所から目標に対する角度を定めさせた。さらに元禄絵図を十分の一に縮め、この測量を基に方位、距離を訂正した。絵図が完成したのは享保八年であった。史料は見分に際して、高木五郎左衛門衛貞が江戸表の奉行などと連絡をとった折の書状、見分にかかわった村方より高木家あてて出した覚書、さらに笙ヶ嶽および小牧山からの方位絵図などからなっている。           
 二つは、弘化三(一八四八)年の高木家の系譜作成にかかわる史料で一五点ある。この系譜作成は弘化二年一〇月および同三年三月に、老中阿部伊勢守より寛政重修諸家譜編纂の時と同様に家譜を差出すようにとの通達がなされたことに対応するものでる。文書は、系譜を作るために東高木家などとやりとりをした書状が中心である。           
 三つは、明治三(一八七〇)年に、高木家の旧家臣が、引き続き高木家家臣として士籍身分を維持したいと願った際の史料で二三点ある。これによれば、旧家臣達は身分の維持のためには朝廷から下賜される手当金を辞退したいとし、また俸給などはなくてもよいから使用していただきたいと願っている。           
 四つは、右以外のもので内容は雑多である。このうちで最も古いのは、貞享元(一六八四)年九月五日付の小笠原土佐守から高木新兵衛にあてて、稲葉石見守が堀田筑前守へ刃傷に及んだことを知らせる書状である。このように江戸との間でやりとりされた書状や、高木修理の家臣の印鑑、多良郷の絵図の断片などがここに含まれる。

 

二、高木家文書目録刊行調査室           
機構と経過  


 高木家文書目録の刊行に至るまでの経過については、目録巻一に概容が記されている。同時に巻一では当時目録刊行を行なっていた高木家文書調査室についても、機構や経過の説明がされている。           
 ところでこの文書調査室は、高木家文書の整理と調査を目的に一九七一年に、五年間の予定で設置されたものであったが、整理が予定通りに進まないこともあって、さらに三年間の延長がなされ、その中で整理済の文書目録全五巻の刊行も計画された。しかし同調査室は一九七八年に目録巻一、翌年三月に目録巻二を刊行した後、なお残された三巻の目録を刊行するために改組され、目録刊行調査室が一九七九年四月から三年間の予定で設置されることになった。この調査室の機構変化の中で、前室員西田真樹氏も調査室を去られ、補助員も入れかわった。さらにその後、目録刊行の作業の中でいくつかの問題が生じたため、目録刊行調査室はさらに一年の延長がなされ、一九八三年三月をもって閉じられることになった。           
 文書調査室については巻一で説明した状態と運営委員・調査室スタッフともほとんど変りがないので、ここでは四年間にわたる高木家文書目録刊行調査室を中心に説明する。この間の運営委員および調査室のスタッフはつぎのごとくである。

 

高木家文書目録刊行調査室運営委員(一九七九年四月~一九八三年三月)           
 文学部教授   山口啓二(一九八〇年度小委員会委員)           
 文学部助教授  三鬼清一郎(一九七九年度・一九八一年度小委員会委員)           
 教育学部助教授 篠田弘           
 法学部教授   平松義郎(一九八二年四月まで、小委員会委員長)           
 法学部教授   山田公平(一九八二年四月より)           
 経済学部教授  塩沢君夫(運営委員長)           
 理学部教授   池田勝一(一九七九年度)           
 理学部教授   石岡孝吉(一九八〇・一九八一年度)           
 理学部教授   松村英之(一九八二年度)           
 医学部教授   青木国雄(一九七九年度)           
 医学部教授   酒井恒(一九八〇年度より)           
 工学部教授   島田静雄(小委員会委員)           
 農学部教授   松尾幹之           
 教養学部教授  伊藤忠士(小委員会委員)           
 なお小委員会は最終年度には廃止された。

 

高木家文書目録刊行調査室           
 室 長 塩沢君夫           
 室 員 笹本正治           
 補助員 山下美智子(一九八〇年度まで)           
     中島俶子(一九八〇年度まで)           
     戒能民江           
     林淳一(一九八〇年度まで)           
     桐原千文(一九七八年度・一九八〇年度より)             
     山下あつ子(一九八〇年度)           
     加藤真理子(一九八一年度より)  


事業  


 事業の中心は、いうまでもなく目録の刊行であった。目録は、           
 巻一 一九七八年三月刊行 収録史料点数九、五三九点           
 巻二 一九七九年三月刊行 収録史料点数一〇、〇七〇点           
 巻三 一九八〇年三月刊行 収録史料点数一二、四六五点           
 巻四 一九八一年九月刊行 収録史料点数一〇、二七九点           
 巻五 一九八三年二月刊行 収録史料点数一〇、〇五六点           
の各年度に行われ、収録した史料ののべ点数は五二、四〇九点に及ぶ。なお高木家文書目録調査室としては、このうち巻三以降の刊行を行なった。           
 高木家文書の普及に関しては、三回の展示会開催があげられる。以下開催年月、展示テーマ、出陳点数、参観者数を掲げる。           
 一九七九年一〇月「宝暦治水」 二五種四三点、二四〇名           
 一九八一年二月「莚田・真桑の用水争論」 二一点 一五五名           
ともに参観者は多く、高木家文書への関心の深さが知られた。           
 次に目録の刊行に伴って閲覧者も増加している。目録刊行調査室以降の概容を示すとつぎのごとくである。           
 一九七九年度        四名           
 一九八〇年度       二五三名           
 一九八一年度        九一名           
 一九八二年度(一一月まで)一〇〇名           
 この状態でいくと、目録完成後には相当数の閲覧者が見込まれる。

 

研究業績  


 目録巻一に収録されなかった論文、および巻一刊行後に、高木家文書を利用して書かれた論文はつぎのごとくである。           
〈研究論文〉           
(1)梅村佳代「明治前期公教育論議の分析―第二大學區各懸教育議会を中心に―」(一九七四年三月『暁学園短期大学研究紀要』第7号)           
(2)西田真樹「明治初年美濃国旧旗本領における農民の諸要求」(一九七九年六月『信濃』第三一巻第六号)           
(3)同   「明和期農民闘争と幕藩権力―美濃国旗本領における集団『退去』をめぐって―」(一九八〇年三月『名古屋大学文学部論集』)           
(4)笹本正治「宝暦治水の概略について―高木家文書の紹介をかねて―」(一九七九年一二月『西畑勇夫先生記念論文選集』)           
(5)同   「近世百姓印章の一考察―形態変化を中心にして―」(一九八〇年七月『史学雑誌』第八九編第七号)           
(6)同   「宝暦治水と内藤十左衛門」(一九八一年三月『中部図書館学会誌』Vol.二二No.二・三合併号)           
(7)桐原千文「複数寺制の導入と檀家の成立―美濃国交代寄舎高木家の場合―」(一九八二年三月『徳川林政史研究所紀要』)           
:参考:           
〈卒業論文等〉           
(1) 好井 淳「近世中期一山村の惣道場について―美濃国石津郡時山村師檀出入―」(一九七五年度名古屋大学文学部卒業論文)           
(2) 水谷敏行「近世後期における高木家在地支配の特質」(一九七七年度岐阜大学教育学部卒業論文)           
(3) 桐原千文「高木家文書における山論―文政年間交代寄合高木家領と尾張藩給人石河家領をめぐって―」(一九七七年度愛知大学文学部卒業論文)           
(4) 松田文子「村人用から見た旗本領主支配に関する一考察―美濃国高木家において―」(一九八〇年度名古屋大学文学部卒業論文)           
(5) 小川泰子「高木家文書にみる江戸時代中期の婚姻」(同右)           
(6) 桐原千文「文政年間交代寄合高木家領における山論発生の原因及び支配体制の諸問題について」(一九七九年度名古屋大学文学部研究生報告)           
(7) 小川泰子「高木家文書中の宗門改帳に見られる濃州石津郡多良郷の複数寺制について」(一九八一年度同右研究生報告)           
(8) 高橋由美「美濃における延享年間の川除普請」(一九八二年度信州大学人文学部卒業論文)           
(9) 白石 尚「近世における『国』区画について」(一九八二年度名古屋大学文学部卒業論文)           
(10)伊藤孝之「美濃国西高木家の鷹場について」(同右)

 

三、今後の問題点           
文書整理  


 名古屋大学が所蔵する高木家文書は、総点数七万七千点と見積もられている。このうち整理が済んで高木家文書目録に収録されたのは約五万二千点であって、残りの約二万五千点の史料については全くの未整理のままであるが、高木家文書目録刊行調査室もここに閉じられるので、これらの文書については今後いつ整理されるのか予定がつかない。しかし、残りの未整理文書を整理することは、名古屋大学に課せられた大きな使命だといえる。           
 未整理の高木家文書の内容はおおよそ次のように見積もられる。            
 書状    二二、三〇〇点           
 その他   六〇〇点           
 日置江文書 二、一〇〇点           
 このうち、書状とその他については、高木家文書調査室の最初の予定終了年である一九七五年に、三年間の調査室延長をした場合でも、残り全部の史料を整理することは不可能であろうとして、書状など整理に時間がかかると思われるものだけを任意に抽出したものである。この抽出は文書を一点一点読んで内容を吟味した上でのものではなく、形態が切紙で一見して書状と思われるもの、および簡単には分類や整理ができそうもないものも外見をもとにアトランダムに抜いたにすぎない。このために、この中にはどのようなものが入っているか全く不明であり、どの程度の価値を持つ史料が入っているか予想がつかない。それゆえ、高木家文書の内容を知る上に、どうしても整理を要するものといえる。特に書状は私信が多いので、高木家の日常実態を明らかにするためにも貴重と思われる。           
 一方、日置江文書は、現在岐阜県岐阜市内の旧日置江村にかかわる文書で、高木家文書とは直接の関係を持たず、高木家文書購入の際にまぎれ込んで大学に入った文書である。この文書は岐阜県史や岐阜市史にも採られておらず、世間にはあまり知られていない。しかしこの地域の村方文書は現在それほど多く残っていないので、美濃の近世の農村を知る上では貴重な史料である。また、高木家の大きな役割である治水は、この地域とともに直接かかわっているだけに、村の側から高木家を考えるに際してこの文書も有効である。そうした意味でこの文書も一刻も早く整理する必要がある。           
 このように、高木家文書の整理が実際にはまだ終わっておらず、未整理の貴重な文書がたくさんあることをもう一度確認しておきたい。  


文書閲覧と保管  


 現時点では、今後の高木家文書のしっかりした閲覧体制は定められていない。刊行した目録をいかすためにも、早急に閲覧体制を整えていく必要がある。           
 閲覧とのかかわりからすると、文書の保管および補修も大きな問題である。高木家文書には必ずしも保存状態のよいものだけではなく、虫食いの激しい一点文書、あるいは虫や湿害のために固着してしまった冊子など、多くの補修を要するものが含まれている。これらは目下のところ閲覧は不可能であるが、こうした文書の中には貴重なものが多い上に、このままでは虫害等がさらに広がる可能性もあるので、早急に補修することが望ましい。また閲覧に対応する職員は、文書の状態を判断し、閲覧の可否を決定できるなど、ある程度の補習技術のある専門家が要望される。  


関連文書の収集  


 高木家は西・東・北の三家からなり、名古屋大学の所属するのはこのうち西家の文書である。東家の文書はその一部が名古屋市の蓬左文庫に残っているが、北家の文書は所在が不明である。高木家の性格を知るためには三家の文書が揃うことが必要である。このため、東家の分については写真等を用意し、北家の分について今後その所在をつきとめ、文書を購入するか写真撮影をする等して、三家分あわせて史料収集をすすめることが肝要である。           
 また高木家の所領であった時・多良(現岐阜県養老郡上石津町)内に残る地方文書の収集も、高木家の村方支配の実態を知る上には重要なことである。           
 さらに、高木家文書の性格の一つである治水関係文書は、高木家文書のみでは研究ができないので、岐阜県史料館所蔵の旧笠松郡代文書や、木曽三川流域の各地に残る関連史料を集めて、総合的に研究する必要がある。           
 このように、高木家文書を利用して今後研究を発展させるためには、高木家文書にかかわる史料の収集と整理を欠くわけにはいかない。これも今後の大きな課題であろう。

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