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高木家文書デジタルライブラリー

江戸時代に木曽三川流域の治水を担った旗本高木家の旧蔵文書群です。名古屋大学附属図書館が所蔵する高木家文書(一部が国の重要文化財に指定)と学外に分散する高木三家に関する文書群および木曽三川流域に伝来した資料群を統合した形で提供しています。

人物解説

高木家 西高木家 東高木家 北高木家 旗本高木家系図 美濃郡代

人名よみ解説
高木家元祖高木貞政さだまさ丞之助、主計頭。駒野城主。弘治年間に斎藤家の麾下となる。覺林院正入大居士。
高木家 高木貞次さだつぐ彦六郎。貞政嫡男。多病により嗣たらず。天文16年(1547)9月24日没。法輪院西願大居士。
高木家2代高木貞久さだひさ彦之助、彦左衛門尉。実は江州樋口三郎兵衛男。貞政養子となり、貞次の娘を娶る。織田信長に仕える。天正8年(1580)11月542貫500文賜る。後に今尾城とその近辺で97貫文余を加増され、一族を引き連れ今尾城に移る。本能寺の変後は織田信孝に仕え、信孝死後は駒野に閑居し、天正11年(1583)没。寂照院無楽大居士
高木家 高木貞家さだいえ彦七郎。貞久嫡男。永禄11年(1568)5月21日討死。無心院安養貞家大居士。

 

人名よみ解説
西高木家3代高木貞利さだとし彦六郎・権右衛門。父貞久が今尾城に移った際、駒野城を譲られるが、永禄11年(1568)兄貞家没に伴い、嫡子となり、後今尾城相続。はじめ織田信長麾下。信長死後は信雄に仕え、信雄改易後は加藤光泰の許に寓居。文禄4年(1595)徳川家康に召し出され、知行1000石を賜う。関ヶ原合戦の際の功により慶長6年(1601)1000石加増、今までの知行も改められ、美濃国石津郡内で計2000石を賜る。代々多良郷に住居す。慶長8年(1603)8月24日没。覺法院祐念大居士。
西高木家4代高木貞盛さだもり彦六郎・平兵衛。慶長2(1597)年徳川家康に召し出され、300石を賜う。慶長8年(1603)遺跡を継ぎ、先に賜う知行と合わせて2300石余となる。大坂の陣に一族と共に参加。寛永元年(1624)、濃州莚田方・真桑方水論御用を勤める。寛永年中、駿府・二条普請の奉行を勤め、その功により秀忠より御内書と馬を賜る。寛永6年(1629)隠居、寛永17年(1640)没。鉄樹院順盛大居士。
西高木家5代高木貞勝さだかつ新十郎・新兵衛・権右衛門尉。大坂の陣に父貞盛と共に参加。寛永6年(1629)家督を継ぐ。寛永11年(1634)、家光入洛の際、熱田宿の舟割を差配、正保年中美濃国役普請御用勤め、美濃国堤御普請奉行職に命じられる。万治2年(1659)・寛文3年(1663)国役普請御用勤める。寛文8年(1668)、一族三人と隔年参勤を命じられ、以後代々の例となる。寛永11年(1634)5月29日隠居、同年9月17日没。真泉院清入大居士。
西高木家6代高木貞則さだのり御吉・新兵衛。実は酒井因幡守忠知6男。貞勝の養子となり、その娘を娶る。寛文11年(1671)5月29日家督を継ぐ。寛文13年(1673)・延宝2年(1674)・同3年(1675)・天和3年(1683)に美濃国役御普請御用を勤める。元禄10年(1697)7月6日隠居、宝永7年(1710)6月20日没。済生院一_清閑大居士。
西高木家7代高木衛貞もりさだ五郎介・五郎左衛門。はじめ出家の志ありて鹿王院にいたが、兄貞長が没したため継嗣となり、元禄10年(1697)7月6日家督を継ぐ。元禄11年(1698)美濃国役御普請見廻御用、同16年(1703)濃州川々勢州桑名川通取払御用、美濃国御普請御用、宝永元年(1704)美濃国御普請御用、美濃国中大小川々取払御用を勤める。また、宝暦2年(1752)には、美濃国中川々・尾州熱田川・勢州桑名川通払跡改として年々家来を派遣すべき旨を命じられる。享保13年(1728)6月4日没。泰了院機山清応大居士
西高木家8代高木貞輝さだてる寅千代・修理。実は貞則4男。兄衞貞の継嗣となる。享保13年(1728)9月25日遺跡を継ぎ、同16年(1731)正月16日没。亮鏡院本徹清円大居士。
西高木家9代高木篤貞あつさだ初め貞刻。重一郎・新兵衛。実は尾張藩家臣遠山景供男。母は貞則娘。貞輝養子。享保16年(1731)4月6日10才で遺跡を継ぐ。宝暦4年(1754)、濃州・勢州・尾州川々松平薩摩守御手伝普請(宝暦治水)の節、場所付御用掛を勤める。宝暦10年(1760)・同11年(1761)・明和1年(1764)・同3年(1766)美濃国役御普請見廻り御用勤める明和3年(1766)4月6日没。弘救院深如清海大居士。
西高木家10代高木貞臧さだよし金石・修理・冠山。明和3年(1766)7月4日遺跡を継ぐ。明和4年(1767)よりたびたび美濃国役御普請見廻御用など川通御用を勤める。文化9年(1812)8月4日隠居、文政2年(1819)没。秀綱院天真関清大居士。
西高木家11代高木経貞つねさだ金二郎・修理・直竹。文化9年(1812)8月4日家督を継ぐ。文化13年(1816)よりたびたび濃州・勢州・尾州川々御普請見廻り御用など川通御用を勤める。万延2年(1861)没。信功院道元清徳大居士。
西高木家12代高木貞広さだひろ貞一・鉄三郎・弾正・広・万水。文久元年(1861)6月4日家督を継ぐ。明治元年(1868)11月中大夫席仰せ付けられる。同年11月4日・14日に新政府に伺いを立てて版籍を奉還する。明治3年(1870)定府を止め土着。明治4年(1871)6月12日没。盛徳院仁山義清大居士。
西高木家13代高木貞正さだまさ実は成瀬正敬男。貞広娘とみを娶る。明治4年(1871)家督を継ぐ。明治9年(1876)8月2日第31番中学区取締助、同10年(1877)4月2日同取締、同12年(1879)2月25日岐阜県多芸上石津郡長、同27年(1894)衆議院議員、大正2年(1913)10月28日多良村長を勤める。大正9年(1920)3月29日没。敬義院立徳有隣居士
西高木家14代高木貞元さだもと大正9年(1920)3月家督相続

 

人名よみ解説
東高木家3代高木貞友さだとも彦之介・藤兵衛。織田信長に仕え、信長没後信孝に仕える。信孝没後、父貞久と共に駒野に閑居。貞久没の折に駒野城を譲られる。天正12年(1584)織田信雄に仕え、信雄改易後は兄貞利らと加藤光泰の許に寓居し、後に加藤に属して朝鮮出兵に参加する。慶長2年(1597)、徳川家康に召し出され知行60石を賜い、翌年さらに500石加増される。慶長6年(1601)関ヶ原合戦の功により500石加増、今までの知行も改められ、美濃国石津郡内で計1000石を賜る。大坂の陣に一族と共に参加。駿府・二条普請の奉行を勤め、その功により秀忠より御内書と馬を賜る。万治2年(1659)4月17日没。慈光院殿普応円済大居士。
東高木家4代高木貞次さだつぐ彦十郎・藤兵衛。実は法泉寺流済次男。母は貞友娘。貞友養子。万治2(1659)年7月26日遺跡を継ぐ。寛文3年(1663)よりたびたび濃州国役雄普請奉行など川通御用を勤める。同8年(1668)、一族三人と隔年参勤を命じられ、以後代々の例となる。元禄11年(1698)7月3日没。松光院殿玄夢月心大居士。
東高木家5代高木貞勝さだかつ庄十郎・権兵衛・藤兵衛。実は桜井庄之助勝政次男。延宝6年(1678)幕府小姓組に属し、のち貞次養子となって、その娘を娶る。元禄11(1698)年12月18日貞次遺跡を継ぐ。同12年(1699)正月20日没。本立院殿道翁義山大居士。
東高木家6代高木貞隆さだたか富次郎・内匠。元禄12年(1699)7月9日遺跡を4才で継ぐ。元禄16年(1703)よりびたび濃州国役雄普請奉行など川通御用を勤める。享保1年(1716)4月25日没。泰岩院殿實眞相空大居士。
東高木家7代高木貞往さだゆき三之助・権之助・内膳。実は山本八右衛門邑旨5男。貞隆末期養子。享保1年(1716)8月19日遺跡を継ぐ。宝暦4年(1754)の薩摩藩御手伝普請(宝暦治水)の際の普請奉行など、たびたび川通御用を勤める。安永2年(1773)3月11日没。高秀院殿心月貞鑑大居士。
東高木家8代高木貞歳さだとし辰次郎・式部・大炊。安永2年(1773)5月6日遺跡を継ぐ。安永5年(1776)よりたびたび国役御普請奉行など川通御用を勤める。安永9年(1780)11月15日没。自笑院殿了悟智寛大居士。
東高木家9代高木演貞のぶさだ源之丞・右膳。実は貞往4男。貞歳継嗣となる。安永9年(1780)12月27日遺跡を継ぐ。天明元年(1781)6月26日没。久静院殿法道養禅大居士。
東高木家10代高木貞直さだなお千之助・中務・藤兵衛。天明元年(1781)9月7日遺跡を継ぐ。翌年よりたびたび国役御普請奉行など川通御用を勤める。文政6年(1823)3月28日隠居、同年4月24日遯と改名、文政9年(1826)4月26日没。大龍院殿雲岳凌天大居士。
東高木家11代高木貞教 正太郎・中務・内膳・大内蔵・義山。文政6年(1823)3月28日家督を継ぐ。文政7年(1824)より尾州勢州川々水行奉行など、たびたび川通御用を勤める。明治6年(1873)没。
東高木家12代高木貞雄 邸一郎。嘉永元(1848)年頃家督を継ぐ。安政2(1855)年10月6日行方不明となる。
東高木家13代高木貞嘉 達三郎。実は貞教次男。兄行方不明により安政3年(1856)頃(又は元治元年(1864))家督相続。大正3年(1914)4月6日没。

 

人名よみ解説
北高木家3代高木貞家さだいえ彦七郎。貞久嫡男。永禄11(1568)年5月21日討死。無心院安養貞家大居士。北高木家の『系譜書』に三代目とある。
北高木家4代高木貞俊さだとし彦太郎・次郎兵衛・四郎左衛門。実は高木貞家男。貞久養子。織田信長に仕え、のち信雄に仕える。信雄改易後は兄貞利らと加藤光泰の許に寓居する。慶長2年(1597)、徳川家康に召し出され知行60石を賜い、翌年さらに500石加増される。慶長6年(1601)関ヶ原合戦の功により500石加増、今までの知行も改められ、美濃国石津郡内で計1000石を賜る。大坂の陣に一族と共に参加。寛永11年(1634)家光上洛時には一族の者と共に熱田宿舟奉行を勤める。同12年(1635)隠居、正保2年(1645)没。馨徳院殿遊岩好俊大居士。
北高木家5代高木貞元さだもと左門・四郎左衛門・二郎兵衛。寛永12年(1635)家督を継ぐ。寛文5年(1665)7月27日没。源照院殿月峰道白大居士。
北高木家6代高木貞重さだしげ初め貞仲・貞成。四郎左衛門。寛文5年(1665)12月11日遺跡を継ぐ。同8年(1668)、一族三人と隔年参勤を命じられ、以後代々の例となる。延宝1年(1673)6月15日没。了源院殿江月安清大居士。
北高木家7代高木易貞やすさだ初め貞辰。権平・次郎兵衛。延宝元年(1673)7月11日遺跡を継ぐ。宝永3年(1706)8月21日没。了照院殿相空玄貞大居士。
北高木家8代高木貞庸さだつね元五郎・新左衛門。宝永3年(1706)11月12日遺跡を継ぐ。宝永5年(1708)10月6日没。円成院殿機外良智大居士。
北高木家9代高木允貞ちかさだ幾次郎・求馬。実は易貞次男。宝永5年(1708)12月29日遺跡を継ぐ。宝暦3年(1753)8月12日没。高梁院殿無倫慈白大居士。
北高木家10代高木貞明さだあきら為三郎・玄蕃。宝暦3年(1753)11月4日遺跡を継ぐ。宝暦5年(1755)11月17日没。玄珠院殿黄山芳林大居士。
北高木家11代高木貞一さだかず千代二郎・亀之丞・一学。実は允貞次男。貞明継嗣となる。宝暦5年(1755)12月27日遺跡を継ぐ。明和4年(1767)6月18日没。霊光院殿下昧玄微大居士。
北高木家12代高木貞固さだかた富弥・監物。実は允貞3男。明和4年(1767)8月5日遺跡を継ぐ。寛政4年(1792)閏2月22日没。天徳院殿固道貞光大居士。
北高木家13代高木貞雄さだかつ初め貞英。駒吉・兵庫。実は大久保大和守忠元3男。貞固養子となり、その娘を娶る。寛政4年(1792)5月4日遺跡を継ぐ。寛政6年(1794)正月23日没。春光院殿日出了白大居士。
北高木家14代高木貞興さだかつ大次郎。実は本多兵庫成孝次男。貞雄末期養子。文化8(1811)年7月4日没。永遊院殿月光貞秋大居士。
北高木家15代高木貞金 玄蕃。天保8年(1837)12月25日没。龍泰院殿仁山道義大居士。
北高木家16代高木貞有   
 (貞郷)
 求馬・図書之助・朴渓・華灌。安政4年(1857)8月27日(8月晦日)没。天眞院殿円鑑自照大居士。
北高木家 高木貞政さだあや福三郎。貞有の庶弟。幼主貞栄後見役。幼主貞栄を輔翼して功あり、よって特に世代に加えて祭る。明治4年(1871)9月11日没。興徳院殿雲岳道謙大居士。
北高木家17代高木貞栄 寿々・容々斎。文久元年(1861)から監物。明治6年(1873)9月3日没。大雄院殿機峰貞栄大居士。

 

人名よみ解説
美濃郡代初代岡田将監善同よしあつ慶長18年(1613)―寛永8年(1631)在。右近・勝五郎・善右衛門・庄五郎。朝鮮役後岡田姓、慶長6年(1601)采地5000石を賜り可児郡姫郷に住む。同18年(1613)、大久保長安死後岐阜米屋町に岐阜陣屋設置。美濃国奉行には、元和2年(1616)就任と考えられる。近江・伊勢・筑後代官を兼ね、名古屋築城・伊勢神宮造営に参与。大阪陣には陣道具奉行を勤める。同5年(1619)岐阜が尾張領となり、岐阜陣屋を可児郡姫郷へ移動。寛永8年(1629)采地替えで大野郡揖斐に転じ、80石加増。同10年(1631)5月没(74歳)。
美濃郡代2代岡田将監善政 寛永8年(1631)―万治3年(1660)在。岡田将監善同息。善政・義政・左京・将監。支配高、寛永13年(1636)71000石余、万治2年(1659)59857石余、うち34000石余は長松君(徳川綱重)・徳松君(徳川綱吉)の預所。承応2年(1653)陣屋を揖斐から可児郡徳野村へ移す。美濃国の治水事業には治水奉行を勤め、慶安3年(1650)の大洪水の際には高木三家とともに復旧にあたった。美濃独自の川普請仕法が国法として定められ、江戸時代を通じて施行されたが、これは将監父子の時代に定められたものである。万治2年(1659)豊前守。同3年御勘定頭となり2000石加増。寛文10年(1670)職を辞す。延宝5年(1677)没(73歳)。
美濃郡代3代名取半左衛門長知ながとも万治3年(1660)―寛文7年(1667)在。中島郡沖村に知行所500石。万治3年(1660)、安八郡北方村に300石加増、善政の跡役を命じられ、陣屋を北方に置く。寛文2年(1662)徳野陣屋から笠松へ陣屋を移す。同3年(1663)布衣。同7年(1667)没。
美濃郡代4代杉田九郎兵衛直昌 寛文8年(1668)―天和3年(1683)在。但馬代官から美濃代官に転じ、廩米300俵加増、650俵となる。延宝7年(1679)四日市代官とともに笠松・田代2ヶ村と新田の検地を命じられる。天和3年(1683)勘定頭に転出。
美濃郡代5代甲斐庄四郎右衛門正之 天和3年(1683)―貞享2年(1685)在。御小姓から代官に就任、300石加増、布衣を許可される。貞享2年(1685)、職を辞し、小普請入り。元禄2年(1689)没。
美濃郡代6代岩手藤左衛門信吉 貞享2年(1685)―元禄12年(1699)在。勘定組頭から代官に就任、廩米300俵加増、650俵となる。同年布衣を許可される。元禄10年(1697)、廩米を改め、上野国三郡内で650石を賜る。同12年(1699)、老齢を理由に依頼免職、寄合に列す。同14年(1701)采地の一部を上総国に替地。同16年(1703)没(78歳)。
美濃郡代7代辻六郎左衛門守参もりみつ元禄12年(1699)―享保3年(1718)在。御勘定組頭から美濃国郡代に就任、廩米を改め、下野国二郡内で500石を賜る。同年布衣を許可される。着任後から洪水が相次ぎ、元禄16年(1703)の桑名川通取払工事や国役普請、宝永期の濃州川々取払工事などに尽力する。享保3年(1718)勘定吟味役に転出、同17年(1732)、老齢を理由に同役を辞職、寄合に列す。この時、養老料・廩米300俵を賜る。元文3年(1738)没(86歳)。「美濃地方品目解」の著者と目される。
美濃郡代8代辻甚太郎守雄もりお享保3年(1718)―享保20年(1735)在。辻六郎左衛門養子。享保3年(1718)7月、小姓組から代官に取立られ、同17(1732)年7月郡代に昇進、布衣を許可される。就任翌年から連年洪水に見舞われ、治政中、治水工事に終始携わる。享保20年(1735)5月没(49歳)。
美濃郡代9代井沢弥惣兵衛為永 享保20年(1735)―元文2年(1737)在。治水土木技術の紀州流の巧者で、井沢流として知られる。紀州藩主吉宗に仕え、吉宗が将軍となるや勘定所新田開発吟味役となり、享保20年(1735)、82歳の時に美濃郡代兼帯を命ぜられる。在任2年、美濃滞在は5ヶ月であったが、三川分流治水工事を幕府に建言し、後の宝暦治水の基となったと伝えられる。元文2年(1737)9月、病気のため郡代を辞し、勘定吟味役を解かれて寄合に列す。翌3年(1738)3月没(85歳)。
美濃郡代10代滝川小右衛門貞寧さだやす元文2年(1737)―延享3年(1746)在。元文2年(1737)11月勘定組頭から美濃代官を命ぜられる。在任中、多芸・安八・石津・不破・海西・中島・羽栗の村々から三川分流工事の願いが出されるも、具体化することはなかった。延享3年(1746)7月丹後国三浜代官へ転出。寛延2年(1749)7月辞職し、小普請入り。宝暦5年(1755)5月没(63歳)。滝川代官は郡代に昇進していないが、「吏徴別録」には、元文2年(1737)11月11日に美濃郡代を廃し、延享3年(1746)7月18日に再建したとある。
美濃郡代11代青木次郎九郎安清 延享3年(1746)―宝暦8年(1758)在。延享3年(1746)7月京都代官から布衣郡代となって着任。翌4年(1748)、幕府は奥州二本松城主丹羽若狭守に濃勢州川々水行普請手伝を命じ、青木郡代・高木三家水行奉行を普請見廻役に任じる。宝暦3年(1754)、薩摩藩による三川分流工事が実施され、青木郡代は惣御普請見廻役・二の手御普請場掛を兼帯。宝暦治水を中心とする川普請に尽力するが、宝暦4年(1754)の郡上金森の「宝暦騒動」への介入を咎められ、同8年(1758)10月郡代役を召し放たれ、小普請入り逼塞となる。
美濃郡代12代千種清右衛門直豊 宝暦8年(1758)―明和3年(1766)在。宝暦8年(1758)12月越後国代官から布衣郡代となり、翌年(1759)3月美濃郡代となる。役高400俵。明和3年(1766)、老衰のため依頼免職、寄合に転じるがまもなく致仕。翌年(1767)10月没(79歳)。
美濃郡代13代千種六郎右衛門惟忠これただ明和3年(1766)―天明6年(1786)在。千種清右衛門息。明和3年(1766)2月書院番から美濃代官となる。この年、長州萩・若狭小浜・周防岩国の三家が濃勢州川々御普請御手伝を命じられ、代官はこの国役普請の指揮監督にあたった。同年(1766)9月家督を相続し布衣郡代となる。明和5年(1768)、安永5年(1776)、同8年(1779)の御手伝普請・難民救助などにも尽力した。天明5年(1785)12月若年寄支配に転出、翌年(1786)65歳没。
美濃郡代14代千種鉄十郎 天明6年(1786)―天明8年(1788)在。千種六郎右衛門惟忠息。天明6年(1786)8月笠松代官となる。同8年(1788)11月、父の代から管内諸村の廻米を私物化していた事と多額の借財が露見し、代官を解かれ、勘定奉行支配下の無役となる。翌年(1789)6月遠島処分。
美濃郡代15代辻六郎左衛門富守よしもり天明8年(1788)―寛政3年(1791)在。守清、六之助。80歳で関東代官から笠松へ転任。在任中、国役普請・定式普請など数々の工事に関わるが、寛政期の大工事には終始尽力し、その功を賞せられた。寛政3年(1791)4月ニの丸留守居に転出、12月布衣を許可される。同8年(1796)4月寄合となり、7月没(88歳)。
美濃郡代16代鈴木門三郎正勝 寛政3年(1791)―寛政11年(1799)在。勘定組頭から美濃代官となる。寛政7年(1795)、布衣郡代となる。翌8年(1796)、播磨明石・肥前小城・岩代二本松三藩による濃勢尾州御手伝普請の際には見廻役を勤める。同10年(1798)の大洪水の復旧工事には陣頭指揮にあたった。翌11年(1799)8月、勘定吟味役に転出。
美濃郡代17代辻甚太郎守貞 寛政11年(1799)―文化2年(1805)在。寛政11年(1799)10月、遠州中泉代官から笠松郡代に就任、布衣許可される。享和3年(1803)~文化元年(1804)4月まで、飛騨の中預りを命ぜられる。同元年(1804)祖父富守(15代郡代)の六郎左衛門を襲名。在任中水害が多発、享和3年(1803)6月、とくに被害が甚だしかった笠松三郷救済のために日掛銭の仕法を実施する。文化2年(1805)7月没。
美濃郡代18代三河口太忠 文化3年(1806)―文化7年(1810)在。備中倉敷代官から美濃国代官に就任。着任早々、年貢米金の期限内納付・村役人の勤め方と身持ちについての触状を出す。文化7(1810)年6月、西国郡代に転出。
美濃郡代19代滝川小右衛門惟一 文化7年(1810)―文化11年(1814)在。安房ほか二ヶ国代官から美濃代官に就任。漢詩に親しみ、同9年養老の滝に遊んで詩碑を建てた。同11年(1814)6月没(73歳)。
美濃郡代20代松下内匠堅徳 文化11年(1814)―文政11年(1828)在。遠三州中泉代官であった文化10年(1813)に、美濃幕領の当分預りを命ぜられ、翌年(1814)2月笠松代官となる。同年(1814)、飛騨郡代病死のため、飛騨郡代後任決定までその中預りを勤める。同12年(1815)の大洪水の復旧工事には普請掛を勤め、その功により布衣を許可される。文政2年(1819)の美濃・伊勢・近江の大地震による復旧工事、同7年(1824)の尾・濃・勢三州の水行直し普請などに尽力する。文政11年(1828)12月依頼免官、寄合となる。
美濃郡代21代野田斧吉 文政12年(1829)―天保6年(1835)在。文政12年(1829)6月、越後国代官から美濃国代官に就任し、土岐・方県二郡10000石余の当分預り・海西郡のうち3000石余の別廉当分預りを命ぜられる。同年(1829)、多羅尾信楽代官とともに飛騨郡代支配地の当分預りを命ぜられる。天保2年(1831)5月布衣郡代となる。同6年(1835)百八輪中の万寿騒動勃発、高須・大垣藩が鎮圧、野田郡代は幕府から召喚を受け、出府途上で没。
美濃郡代22代柴田善之丞 天保7年(1836)―嘉永4年(1851)在。天保7年(1836)正月、甲州石和代官より転勤を命じられ、6月着任。前代の万寿騒動、天保年間の凶作による村々の困窮への施策に努力する。嘉永3年(1850)10月、江戸城ニの丸留守居役に転じる。
美濃郡代23代岩田鍬三郎 嘉永4年(1851)―慶応3年(1867)在。嘉永4年(1851)10月、伯耆石見銀山代官から美濃郡代となる。万延元年(1867)、飛騨郡代管下加茂郡下川辺陣屋が美濃郡代所轄となる。在任中、幕末情勢への対処する施策も多かった。慶応3年(1867)8月、依願退官して寄合に列す。事務引継に関する詳細な記録を残している。
美濃郡代24代屋代増之助 慶応3年(1867)―慶応4年(1868)在。慶応3年(1867)12月9日、王政復古の大号令により幕領が天朝御料となる。手代による事務引継は同年(1867)1月に行われているが、屋代郡代任命の日は不明。翌4年(1868)美濃郡代政治は終焉。

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